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官僚的な創作を神は許すのか? 前編

 創作が自由意志によるこういならば、その自由とはどこまでのことだろうか?
 自由。自由と言いつつルールがある。そして限界がある。そして常識というものがある。何より、世間体というものがある。
 創作が本当にどこまでも自由なら(そして、その自由を奔放なまま叶えられるとしたら)、そこには確かに創作者の意志しか存在しないと言える。

 しかし、創作には創作者の意志以外のものが含まれることがある。「こうしなければならない」「こうすればより他者が喜ぶ」という、外部的な基準や感情だ。それはルールや常識というものでもあるが、何より、創作者の自身のやりたいことというよりも、目指すべき他人の感性ということである。
 それを満たすように創作する時、官僚性が現れる。顕現する。自由ではないのはもちろんのこと、杓子定規な、融通のきかなさが、官僚的な創作を規定する。

 その創作に陥ってしまうことは、何も自由でなく、面白くなく、無味乾燥としてしまうことと同義である。官僚的な創作は最も警戒すべき創作のいち形態である。

※続く

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