インプットとアウトプットが本当は触れ合えない理由
どのような事柄でも、およそアウトプットと言われるようなものはその裏にインプットが前提にあると思われている。これは文章、絵画、映像、音楽、広告、その他アイデア……私達が何らかの形として表出する諸々は、その前に別のそれらを取り入れることで刺激が促されるという考えだ。
最も分かりやすくは、文章なら文章、絵画なら絵画、映像なら映像という同一分野のインプットが、その分野のアウトプットに繋がるというものである。これは一見すると正しいように思われるが、この観点には重要なプロセスが抜け落ちている。
それは、イメージの整理と再構築だ。インプットとアウトプットの間にはこういった時間がある。なぜなら私達は見聞きした物事を単にそのまま保持するのではなく、自分なりに解釈するからだ。即ち、そもそも私達のインプット結果と、そのインプット対象はイコールで結ばれない。この現実にあるものをどのように見聞きするのか、その時の心理状態はどうか、何を目的としてどこに注目していたのか。そういった諸々によって、インプット結果は大いに変わる。さらには、そのような理由によって、同じものを見聞きしたとしても、同じインプット結果になるとは限らないことすらある。
そしてそれだけではない。
このインプット結果は、私達の心の中でアウトプットに変換されるのだ。当然のことながら、その変換は移送ではない。なんらかの変化を伴う出力である。だからそれは、もはや当初のインプットとは全く別のものになると言って良い。
加えて、このアウトプットはまだ内的なものだ。最後にこれを、現実世界に表出するわけだが、無論、どのようにそれをするのか、どういう目的なのかなどの条件によって、内的アウトプットと全く同じものであるということは稀だ。思うことと、それを表現することには差が存在するというわけである。
そういうわけで、インプットとアウトプットのプロセスは、
①インプット
②インプット解釈
③インプット整理
④イメージ再構築
⑤アウトプット準備
⑥アウトプット
簡単に考えてもこのようになる。だから私達が日頃インプットしているものは、絶対にそれがアウトプットされることはない。私達はその入出力のためのストローではなく、そして触媒でもない。単にそれを入れておくためだけの入れ物でもない。自分自身がインプットとアウトプットに関わり、そして影響し合い、なんらかの変化したものとしてまた現実へ投影する。
そういうことだから、インプットとアウトプットは互いに、その元々の姿を知らないと言える。それらは確かに関係しあっているものの、その間にいくつもの変換やプロセスがあるために、直接は触れ合わないものだとすら言える。
そういう意味で、それらは実のところバラバラで、分断されている。アウトプットの前提にインプットがあることは確かに肯定されるものだが、その距離が案外離れていること(心の中だとしても)を、私達はなお知っておくべきである。
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