「主人公」が男性的でないはずがないので

 主人公という存在はおかしい。それは当然に物事の中心にいて、その視点で物事は語られて、最終的にはその望むように物事が動く。それは世界の中心である。主人公というのは、それを背負わされた存在だ。それは中心にいるべくして作られた偶像であり、ヒーローであり、それが属する物事の1つの大きな基準点となるものである。

 だから、それはともすれば「男性的」である。この世の中はまだ必然的に男性中心社会であり、それを払拭しようとしていても、その名残は深く刻まれている。そして「主人公」という概念は、それがフィクションにおけるある役割のことであるとしても、何かの中心にいること、力強さ、豪胆さ、決定力、リーダーシップ、それら男性的なイメージを必ずまとうことになる。
 つまり、現実的に、これらの役割を担うのが男性であったことのイメージが、まず私達にはある。すると、それをフィクションの中で「主人公」が行うこと、担うことを目の当たりにする時、どうしたってそれは男性的に思わざるを得ない。だから、主人公は、そのどのような設定があったとしても、まずもって男性的なのである。男性性から逃れることができない。そのように、宿命づけられた存在だ。

 もちろん、これは主人公の「中身」の話ではない。主人公という「役割」が男性的なのだということである。しかし、主人公である以上、それは主人公でなければならないのも事実だ。
 ある作品に複数のキャラクターが登場するのなら、そうと明記されていなくとも、もっとも主人公を担うべき誰かが主人公となる。それは必ず、最低でも1人に担われる。そしてそうなったからには、主人公は、「主人公らしい行動」をとることになる。そのようになってしまう。

 だから、主人公という存在はおかしいのだ。自由な発想のもとで展開されるクリエイティブな作品の中で、こうまで縛られているキャラクターも珍しい。しかもそれは「男性的」ですらあるのだ。この時代に。旧来の枠組みなど枷でしかないと言われる風潮の中で。
「主人公」は相変わらず、男性性を持っている。その諸設定にかかわらず。そうでなかればそれは、主人公ではないのだから。

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