無知を生じさせるモノ ②事実からの分断
「無知」を正直に告白することが怖いと思うのならば、私達はまず、この身に抱える無知がどういうものかを知らなければならない。しかし「無い」ものを知ることは難しく、どこにあるのかもわからないようなものだ。それでも私達は「無知だ」と思うのならば、それを放置していればそうするだけ、無価値な人間になってしまう。そういう強迫観念を覚える。
幸いなのは、自分が無知なことにすら無知であれば、そのような焦燥感に苛まれることはない。ただ、この世の中の1つの資源としての生をまっとうするのは、そのような人間である。
実際のところ、生きることとは自身が主体でなくとも可能である。誰かに生かされているという人がいることは珍しくないし、それがおかしな話でもない。大局的に見れば、そのような人は誰かの道具として、あるいは、誰かを生かすために生きているようなものであるが、そのことを認知できなければ普通に生きているのと変わらないのだし、もちろん、認知すらできないこともあるだろう。
なんにせよ、そのような、自信の境遇すら(人生の意味すら)知らないままで生存することは可能なので、それ以外の倫理とか、真実とか、事実といったこの世の出来事を必ずしも知らなければならないということではない。
1つ、私達がそのような「無知」になることの理由として、「事実からの分断」があげられる。これは、この世に垂れ流される「撹乱された真実」とはまた別の要因で、私達を「知」から遠ざけるものだ。
なんらかの恣意的な操作によって事実が人々の目から分断されていることは確かにあるものの、多くの場合、事実は、単に自然的な流れで、ごくごく普通に私達から分断されている。なぜなら私達は、個人だからだ。その、手に入れられ情報量、取れる手段、処理できる数などにとても限りのある、いわば「限定的な存在」だからである。それゆえに、この宇宙で(というか、住んでいる地域に限ったとしても)起こる出来事=事実を、そもそも把握しきることなどできない。
だから基本的に、私達は事実と分断されていて、その時点でどうしようもなく「無知」なのである。そういった限定的な存在が私達なのだ。なお、今のような情報化社会では様々な事実が毎秒とびかって、刻々と変化していく。どう考えたって、よほどの工夫をしない限りは、多くの事実とは分断されてしまうことは想像に難くない。少し気を緩めただけでそうだ。恥じることではないが、なんらかの改善をしなければ、私達は無知以前に、そもそもこの世の事実と分断されたままなのである。
無知を恐れることは、自分が無知だと気づければ可能である。しかしそもそも私達が何かを知ることができるほど、この世の事実と結びついているかと言われれば、そうではない。
知ることができない以前に、存在すらわかっていないのだ。何かがあることに気づかない。見えないものは、ないのと一緒である。だから私達が、無知を嫌がって、より様々なことを知りたいと思う時、必要なのは、この事実達といかに繋がりを持って行くか、分断されないまま生きていくかを考えることである。
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