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「伝わったことがすべて」は正しいけど、正しくない
表現とは伝えたことではなく伝わったことがすべてだが、とはいえ伝わったことというのは必ずしも「正しい」ものではない。重要なのは、いくら私たちの普段の言動やコミュニケーションが「伝わったことがすべて」だと言われているとしても、それは単に「そうでしかない」というだけで、「そうであるべき」ではないということなのである。
自分の思いを他者に表現する行為は、どんな人間でも必ず行う日常であり、ゆえにそれはいつもトラブルを引き起こし、悩みの種になり…そして、それを打破したいという欲望が様々な工夫や方法論をあふれさせる。
そのような時によく聞くのが「伝えたことではなく伝わったことがすべて」という常套句であり、格言であり、啓発であり、あまつさえそれが世界のルールですらある。
確かに表現というのは、私たちが1人1人異なる思想を持つ以上、伝わったことしか存在しない。どんなに工夫しても、表現が「発信」→「受信」という工程を経る以上は、つまり情報を手渡してしまう以上は、その解釈を最終受信者に委ねるしかないというのが当然である。
このことは私たちは重々承知していて、でもよく忘れることでもあり、だから戒めとしてかのような格言が、定期的に再生産されている。
そのせいでなお、私たちが拭い去れないのは、その格言が常に正しいことだという勘違いだ。「伝わったことが正しい」という言説。いかにも正しそうな物言い。信じる。実際にそうだと思えるし、信頼するしかない。
でもどんな時でも正しいはずはない。
なぜなら、あくまでそこにある確からしさは、私たちが経験する出来事の総まとめ、その感覚からくるものでしかないからだ。そして表現における私たちの経験とは、「伝わったこと」ではなく「伝わってしまったこと」に対する諦めが多く含まれている。
時間がない、知識がない、気力がない。でも、伝えなければならない、表現をせねばならない、言わねば、書かねば…これは日常の話である。だからそんなふうに、私たちはいつも、その表現を万全にはできないし、そうできるまで他人は、社会は、世界は、何より自分は待ってくれない。
だからそもそも、「伝えた」などと私たちは、満足に言えないのだ。精一杯やれることはやった。でも後悔も諦めもあって、仕方なくて、それで形作られた表現が誰かに受信され、「伝わってしまう」。
十分に準備できなかったものからしぶしぶ手を放して、その意味を、解釈を他者に委ねなければならない。そういうのが、この世界に数多溢れる「表現」の現実である。
伝えたことではなく、伝わったことがすべて。それは事実だが、そもそも伝えること自体、自分の思い通りにならず妥協だらけで発信されるものなのだ。なおのこと、だから、伝わったことというのは正しくはない。
ただこの世には、伝えたいという思いと、伝わったという思いがある。本当に、ただそれだけなのだ。
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