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プライドのあるチームワークを求めて

 仮にこの世の人間が1人1人隔離されてコミュニケーションも取れなくなったら、世界というのは滅ぶに違いない。そう考えるのは、自分が社会的な生き物であると信じてやまない証拠である。もちろん、これは突拍子もない例え話にすぎないけれども、少なくとも私達は他者と補い合ってこの世の中というものを作り、運営しているチームである
 チームが好きかどうかに別にして、誰しも人生の中でチームワークをしなければならない。ならないからこそ、そのチームのあり方というのはとても大事だ。にもかかわらず、世の中の多くのチームは、そのあり方のケアはされていない。されていたとしても数えるほどしかないだろう。それくらい私達は、チームというまとまりよりも、その中にいる個々人の状態についてしか、もっと言えば自分のことについてしか、深い関心を持てない。

 だから、世の中にあるチームは問題だらけである。そしてそのせいで、苦しんでいる人がいる。その苦しみを予防したり、改善したりする方法はたくさんあるけれど、いざそれを実行することには、いろいろな困難が生じてしまう。
 すると、私達はこのチームの失敗を、チームワークのせいにする。組織の失敗は、それを運営する構成員によるものだと断ずる。それは、ごく自然な思考の流れだ。つまり、私達はいやでも何かのチームにいなければならないのに、そのために全力を尽くそうとしないからこうなるのだと、そう思ってしまう。構成員は組織のために動かなければならないという言い分。それはしかし、その言葉通りの意味ではない。
 つまり、構成員は適切なチームワークでチームを運営せよ、というのならまだマシなのである。現実はそんなものは飛び越えて、構成員は、誰か他の構成員のために働かなければならないとすら、話が飛躍してしまうことになる。それこそがチームワークだと。チームのためではなく、チームの誰かのために働けというのが真理なのだと、冗談でなく信じ込んでしまっている人々がいる。
 厄介なのは、それが往々にして無意識なことだ。私達が(つまり、そうではないと思っているあなたも)チームワークと呼んでいるものの正体が、実は誰かのための献身でしかないとしたら、それはチームの理念としてはおかしい。
 チームは、チームの目的のために動くものだ。そしてもちろん、チームワークはそのためにある。考えるまでもなく、それらは全て「外側」にある。チームワークの矢印は、外に向いていなければならない。けしてそれは、内に向いていてはいけない。少なくとも、内に向いている活動をチームワークなどと呼んではいけないし、それをするのならば「個人」の意識を持つべきだ。あなたが構成員でいたいのなら、あなたはチームの外側を向き、行動しなければならない。

 これは理想である。現実の私達は、チームの運営も、その方向性も、100%適切にできていることは少ない。しかし、だからこそ、その間違いへ向かいやすい意識を、そうでない方向へ持っていこうとするプライドは有用である。当たり前に、チームワークはチームのためにあるのだということ。そしてチームは外側に目的を持っているということ
 それだけだ。本当に、ただそれだけのことなのである。

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