「作る」を比喩で捉える悪癖
何かを作り上げることを目指す。そこには必ずゴールがある。これと決めた理想や目標に向かって走ることに、誰も、なんの異論もないはずだ。それがたとえ集団だとしても、戦闘を走る人間の理想に共感していれば、誰もリタイアすることなく揃ってゴールへ行ける。
でも、それは比喩だ。当たり前の話として、何かを作り上げることと、ゴールへ向かって走ることは違う。どんなに遠くても、1歩ずつ決まった方角へ足を踏み出し続ければ、ゴールには必ずたどり着ける。一方で、何かを作り上げることにはそもそも方角がない。あるいは、方角だと認識していたものが全く違ったということもあり得るのが、クリエイティブな作業である。
私達人間の為す行いは、時としてそうやって、わかりやすい比喩的に語られすぎていることがある。走ること、歩くこと、積み上げること、壁を乗り越えること、掘り進めること、空を飛ぶこと、島から島へ渡ること……でも、それは比喩だ。実際にはそうでないものを、説明するためにフィルターを通しているのである。ならばそれは、実際ではない。現実はそんなに簡単ではないし、そんなふうに説明されて、理解した気になってもいけない。
中でも、何かを作り上げるクリエイティブな行いは、座って考えたり実際に身体を動かしたり、1人だけだったり複数の人が関わったり、予定通りだったり破綻したりと、様々な様態や段階、形式などが存在する複雑なものである。そして何より、それは私達人間の、内面的で精神的な活動と密接につながっている。それは時として、覗き見ることの不可能なものだ。理由や原因も分からず、大きく変化することもあり得る現象である。そんなものを、走るだの渡るだの乗り越えるだの、シンプルな運動にたとえて分かった気になるのは、非常に危険なことだ。
事情を全く知らない人や、他人に説明するのなら、いいのかもしれない、比喩は分かりやすいから。だが、その印象を自分自身が持ってはいけない。クリエイティブな作業に関わる人間が、その作業自体を比喩的に捉えることは自殺行為である。実際に何をしなければいけないか、今現在はどこにいて、これからどうすべきか、当初の予定からの修正点はどこかなど、具体的に把握できるところはいくらでもある。
無論、そんなこと当然だと誰もが思うはずである、しかしひと度、それを長い道のりや、高い壁や、深い洞窟にたとえられると途端に視野が狭まる。まるで自分達がランナーや登山家や探検家になったかのような気分で、作業にあたってしまう。
その態度は、「実際」を損なうものだ。するとその目は曇る。どれほど些細な曇でも、それは何かを作り上げることに影響を及ぼす。それを防ぐために、私達は現実に目の前にあるものを、たとえ分かりにくかったとしても、見えなかったとしても、理解するための努力を怠ってはいけない。
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