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推して、そして、応援して

「推す」ことは「応援」ではなく、加熱する対象への興味関心を、内部的に多く飲み込むことで成立する。一方で応援はより対外的に、対象への興味関心を伝達する行為を基本的に伴う。
 すなわち推すことというのは自己完結でき、応援はその余地が少ないのである。「心の中で思っていても」推しは推しだが、「その行為を知らしめる」ことにこそ、応援の価値はあるからだ。

 より、興味関心が個人的になり、いわば「他人の趣味に口は出さない」ことが当たり前になった現代では、まさに推すという行為にとっては好都合である。
 対象をただ好むだけだったとしても、その温度感で充分に推しになる。むしろ大々的にそれを支援することは、応援として切り離され、わざわざそれをする意味がなければならないほどには特別なものとなった。

 推しと応援は別個のものとなり、それぞれの作法ができた。
 そして加熱する興味は往々にして心の中で、自分だけでも楽しんで良いものとなり、それは大抵「応援とは言わなくなった」のである。
 個人で楽しむものとしての意味が大いに定着した。
 自分以外の何かに希望を見いだす行為はしかし、言ってみれば自分のためにやっているのである。
 だからこそ、「個人主義」が自明の世の中では当然に、応援よりも推しが選択される。対外的に知らしめることよりも、内部的に愛でることを優先する「推し」の実態は、まだまだ発展途上であるだけに、今後ももっともっと加熱していくに違いない。

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