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東京人になりたい私。

「「まだ東京以外には住めない〜」とか言ってるの?」
ワイングラスを揺らす由梨枝の声に、小さな棘が胸に刺さった。言葉にはしないが、その棘は意外と深かった。「そんなことないけど」とつぶやき、赤ワインを飲み干して誤魔化した。ムッとした自分を必死に隠そうとするけれど、つい表情が引きつっていたのがわかる。

私はずっと「東京人」でありたかった。自己紹介ではいつも「東京出身」と嘘をつき、喉奥に滲む後ろめたさを押し殺し続けてきた。でも、その嘘こそが、私を「自由」にしてくれると信じていた。


大都会東京、日本の中心。そこで日々漂うように呼吸する。それが私の全てであり、唯一残されたもの。


18歳で、宮崎市内にある小さな高校を卒業したあと、早稲田大学に進学した。


宮崎の街は、湿気と山から吹き降ろす風に包まれている。空気はどこか土っぽく、雨が降るたびにアスファルトの匂いを押しのけて、緑の匂いが立ち込めた。高校時代、周囲はひたすら静かで、車が通る音とカエルの鳴き声だけが日常のBGMだった。
テレビも民放は2局しか映らず放課後に友達と集まるのは決まってイオンモール。新しいショップがオープンしたときだけ、街全体が小さな賑わいを見せた。でもそれも、次第に興味を失うほど単調な日々の繰り返しだった。


宮崎の、いやどこの地方も同じなのかもしれないけれど、周囲の人から聞く都会の情報は偏見で埋め尽くされていた。
地方の人々は都会を恐れ、悪く言う。
歩いていると襲われる、薬漬けされて犯される、タバコと排気ガスで肺がんになりやすい、人の住めたところではない、など漠然としていて、誰も行ったこともないのに、どこから仕入れたかなぜか具体的なエピソードが、宮崎の人を東京から遠ざけていた。


雨の日、傘を忘れて逃げ込んだ民家のガレージで、タオルで髪についた水滴を拭いながら暗く濁った空を見上げた。どこに行く当てもない自分と、一生曇りのままかもとすら思わせる梅雨の街並みが重なって見えた。


そんな私が東京への憧れを持ったのは、映画がきっかけだった。
宮崎市に3つしかない(たまたま遊び場にしてたイオンモールにあったのだが)数少ない、薄暗い映画館で初めて見た東京の夜景は、星空よりも眩しく輝いていた。街灯に照らされた濡れたアスファルトの路面、ビルの窓から漏れる無数の明かり、夜空を切り裂くように走る電車。そこに生きる人々は、みんな自信に満ち溢れ、何かを掴もうと足早に歩いていた。
地方の人々が持つ都会への偏見とは正反対の「希望」に溢れた場所。

最も強く心を打ったのは、周りの人の無関心さであった。安っぽい恋愛映画の中で、道行く人々に失った彼女のことを尋ねて回るのだが、誰も相手にしない。それどころかまるで見えていないかのようにして、通り過ぎていく。その無関心さと対比されて、東京の夜景の美しさは一層輝いて見えた。ここが私の行くべき場所だ、そう確信した。

別に東京で一旗上げたいとか、そういうのはなかった。両親は数代続く不動産屋で、正直なところお金に困ることはなかった。もちろん勉強は高校でも5本指に入るくらいだったし、模範的な高校生として、両親には恥をかかせないように生きていた。
それに実家も宮大に進学した4つ上の兄が継ぐことになっていたので、宮大はおろか熊大、九大など、宮崎のちょっと賢い女の子が受ける大学を受けずに、東京の大学一本に絞ることを告げた夜も、最初は反対していたものの、私の性格と期待を理解してか、いつも最終的に納得してくれた。それでも合格発表をスマートフォンで確認した時、ほんの少しだけ後ろめたさも感じた。

東京へ旅立つとき、自宅から空港まで向かうバス停で母親は泣き出してしまった。父も泣きそうな顔をしていた。
その泣き顔を背中にバスは走り出した。桜も散らしながら、空はどんよりとした鉛色の色彩で、私を見下ろしていた。

大学は思ったよりつまらなくて、大学生活は夜だけが生き甲斐だった。アルバイトは授業の空いた時間だけ、代々木にあるウサギカフェで働いていて、つまらない人間の生活を埋めることで生きるウサギへの給餌とつまらない人間の給仕で、わずかなお金をもらっていた。それでも生活は苦しくなかった。
牛込神楽坂のワンルームの家賃は両親が支払ってくれていたし、大学生の一人暮らしなのに、新卒社会人の初任給くらいの仕送りを貰っていたので、遅れそうな時は平気でタクシーを使ったり、1人1万するようなご飯屋さんに行くことに全然抵抗はなかった。

数回参加したサークル活動は、幼い同学年と無遠慮な距離感に辟易し、すぐに足が遠のいた。
昼はウサギカフェのアルバイトと学校と、夜は神楽坂でおよそ宮崎にはなかった名前のパスタと少しのお酒を嗜んだ後、スーツを着た社会人が千鳥足で駅まで歩く様子を遠目で眺めながら過ごす日々だった。

ご飯屋さんで出会った人とお付き合いすることも何度かあった。メガバンクや総合商社など、高給とされる彼らは、いつも小綺麗にしていてギラギラと輝いていた。彼らも自分の価値を疑っていなかったし、自分に無関係な事柄は例え目の前で人が飛び降りたとしても、そのまま2杯目のハイボールを注文できるような無関心さを備えていた。

大学に入って2番目に付き合った人は、裏神楽にある古民家風の居酒屋で出会った人で、彼が私に聞いた「出身は東京?」という問いは私の自尊心をくすぐった。自称東京出身を始めたのはこの頃からだった。
そんな彼らが私を通り抜けていき、私もまた彼らを通り抜けて、東京を知っていく。大学生から見た社会人は、年齢差はほとんどなくとも、全く東京人であった。

そんな彼らと夜を重ねることで、少なくとも東京という街における市民権を得た気にさせ、そして大人の世界に仲間入りをしている充実を覚えさせた。更に私を夜の神楽坂へ向かわせるには十分だった。ネイビーストライプのスーツを着た社会人が語る未来の話に頷きながら、私はただ、自分が消費されるだけの存在になっていく気がしていた。結局得られたのは駆け抜けていく女子大生というブランドが、少しずつ社会の中に消費されていく感覚だけだった。憧れた東京人にはなりつつあったのかもしれない。

東京の街並みは息を飲むほど美しかった。夜、神楽坂の石畳を歩きながら、街路樹に吊るされたイルミネーションがキラキラと輝くのを見ていると、自分が「特別な場所」にいるような錯覚を覚えた。でも、同時に胸のどこかが重くなっていくのを感じる。東京での生活は華やかだったけれど、どこか空っぽだった。

それでもテレビで地方の特集などをやっていると思わずチャンネルを変えてしまう、自分を俯瞰的に見てしまって、嫌な気持ちになる。実家には「今度帰る」と言い続けて結局4年間一度も帰らなかった。

そんな生活をしていたからか、もともとそんなに勉強も課外活動も真面目に取り組んでいなかったからなのかは今でもわかっていないが、新卒の就職活動は上手くいかず、両親と大学の先生に泣きついて、1年だけ留年をさせてもらった。運良くすぐに保険会社の内定を貰い、両親には「生命保険会社で営業の仕事をすることになった」とだけ、メッセージを送っておいた。卒業式の日程を聞かれたが、元々出る気はないし、晴れ着にも興味がなかったので、出ない、とだけ返事をし、その後の返事は今も確認していない。



入社式で由梨枝と出会った。社長からのありがたい話を身体だけは真面目なふりをして、話の中にやたら登場する「要するに」の後が毎回全然"要されていないこと"を見つけては、ニヤニヤしながら、時間が過ぎるのをただ、眺めていた。
会議室に移動して、新入社員のネットワーキングの時間となり、自己紹介が始まった。
私はいつもの通り、喉の奥の気持ち悪さに押し殺して東京出身を軽く擦って、席に着いた。次に立ち上がった子に目をやった。

「吉田由梨枝です。由梨枝の"り"は梨とかきますが、出身は愛媛県でみかんが有名です。お酒を飲むのが好きで、たまに1人で飲みにいったりします。よく実家からみかんが届くのに、1人では消費しきれないので、好きな方はお裾分けさせてください」

由梨枝は、最初から「東京人」のオーラを纏っていた。長い手足に、どこか力の抜けた立ち居振る舞い。
それなのに、愛媛出身だと堂々と言ってのける清潔さ。そのギャップに驚かされると同時に、なんとも言えない劣等感が胸の奥に広がった。ふと頭をよぎる最後に目にした両親の泣き顔を打ち消すように、由梨枝の話に相槌を打つことしかできなかった。

最初はビジネスマナーやら文書やら法律やらとにかく新人研修の毎日だった。名刺を渡すという単純な所作一つとっても、マナーだの礼儀だのあるのは、まぁ社会人としてのイニシエーションなんだろうと思い、真面目に取り組んでいた。グループワークでもなにかと由梨枝と同じグループになることが多く、由梨枝の学生時代の話や、実家には少なくとも半年に一度は帰ってること、東京の自分の家に両親を招いたこともあること、東京で稼いで両親に楽をさせたいことなど、たくさん話をしてくれた。どれも私の胸を刺し続けたが、彼女の東京人らしさに、惹きつけられる自分もいて、もやもやとした自尊心の揺らぎを、その時ははっきりと感じていた。

ただ、新任研修終わりに同期と行く丸の内HOUSEで飲むやけに気取った名前のワインは、私をますます東京人にした。私が一年留年したせいで同期は大抵が一個下のはずだったが、やけに大人びていて、金融業界の将来を口々に語り合っていた。保険営業でまずは支店トップを取るんだ、とか債券の運用でトラックレコードを作るんだ、とか。それに周りで飲んでいる同じように真っ黒なリクルートスーツに身を包んだ人たちも、よく知らない横文字を繰り返しては、グラスの氷が溶ける音さえかき消していた。このスーツがだんだん他の色に変わっていくにつれ、更に輝きを放っていく東京の新鮮な光景は、神楽坂と高田馬場だけで、東京人になったと錯覚させていた私を更に東京にのめりこませた。夜まだ少し肌寒い中、東京という煌びやかな世界を身に纏って、いくつもの人間が通り過ぎていく中、何にも縛られずに生きていくんだと思っていた。

配属発表があるまでは。



「高知支店」


紙に書かれたその文字を目にした瞬間、全身の血が一気に引いていくのを感じた。耳鳴りがして、目の前が真っ白になる。喉の奥から何かが迫り上がってきて、叫び出したいのに言葉が出ない、音にならない。足早にトイレへ向かい、鏡の前で深呼吸する。この感情がどういったものか分からず、ただ泣きそうになるのを必死でこらえた。
「東京人」
自分にいつも問いかける声が頭の中でリフレインしていた。

研修所に戻った私を同期が心配そうに見ている
「地方なんて初めてだろ?修行と思ってさ!東京に遊びにくることあったら、みんなで飲もうぜ!」
無事本部の運用部門に配属になった哲也の言葉に、イラついてしまった。どこかよくわからない四国の県に配属された私を蔑んでいるんじゃないか、馬鹿にしてるんじゃないかという疑心に駆られた。
その日はGWの前の日だったこともあり、さすがに神楽坂の行きつけの店に駆け込んだ。

神楽坂の夜、私はいつも自由だと思っていた。けれど「高知支店」という言葉を前にした今、その自由がどれほど脆いものだったのか、痛いほど思い知らされる。

その日飲んだ赤ワインはいつもより苦くて、でもお酒を飲まずにはいられずに、ボトルを飲み干した後、自宅に帰って全部戻してしまった。


高知支店での勤務初日の夜、歓迎会を終えて、2LDK6万5千円の家に帰る。真っ暗な部屋にはまだ22時にもなっていないのに、月明かり以外の光は入らない。駅前の無印良品で買った新品のコーヒーフィルターにお湯を少しずつ注ぎ、抽出されるコーヒーがポットに一滴ずつ落ちていくのをぼんやりと眺めていた。

歓迎会は、久々の新人配置ということからか、どこかぎこちなさをはらんで、ひろめ市場に程近いわら焼き屋で開催された。方言混じりの会話、甘い醤油、土と草とがブレンドされたような香り。全てが、宮崎を思い出させるようで、更に私を失望させた。出身、大学は学生時代どんなことをしてきたか、趣味、お酒を飲むのか、など当たり前に聞かれることや言われることが、どうも地方独特の文化であるかのように聞こえてきて、耳を塞ぎたくなった。
少しでも都会に近い空気を感じていたくて借りた高知駅徒歩3分の家に帰る道で、ナンパされた時にも閉口した。
東京では考えられない、方言じみたセンスのない誘い口。安いたばこと日本酒の匂いをまとわせたユニクロのウルトラライトダウンに
だらしなく履きつぶされたティンバーランドの茶色いブーツ。髪はツンツンに立っているのに前髪はだらしなく目にかかっていて、高校生がそのまま大人になったよう。そんな姿を一瞬でも視界に入れたくなくて、足早に立ち去る。
2分後に、まるでドッペルゲンガーかのような同じシルエットの人が何か声を掛けてきたような気がしたが、いつも私が自分で話している「東京出身」という言葉が繰り返し脳内に流れるのに身を任せていた。

東京で使っていたマグカップを手に取り、無理にでも自分を東京に引き戻そうとした。
その日のコーヒーはすっかりぬるくなってしまい、飲んでも苦すぎて真新しいシンクにそのまま流してしまった。
窓から見えるのは、街灯の灯り。燦然と輝く高層ビルの光に見下ろされる感覚が遠い過去のように感じられた。

仕事は日々退屈さを極めていた。そもそも社会人とは、自分の時間を充実なものにするために働き、数ある選択肢の中から漂うように選択する、そんな暮らしを思い描いていたのに、やってることといえば外交員の同行と採用活動のお手伝い、それから何故やらなければならないかもわからない地域のお祭りでの出し物の練習。
営業先の企業は家族経営の小規模なところがほとんどで、会話の話題もほぼ地元に根差したものばかり。昼休みに立ち寄った定食屋では、顔なじみらしいお客たちが店主と世間話を交わしているのが聞こえた。
高知の人の言葉は本当に分からなかった。本当に日本語?というくらいに訛っていた。その度に宮崎の高校時代の苦手な国語の先生の顔が思い浮かんで、また嫌な気持ちになるのだ。滑舌も悪く、ひどく訛っているうえ、すぐ怒る、あぁ、コミュニケーションに苦労するとは思わなかった。同じ日本人なのだろうか。本当は日本語を練習している外国人なんじゃないだろうかと思いたかった。初めて聞いた土佐弁はどことなく宮崎弁にも似ている気がした。似ている気がすると感じた私自身に、逃れられない地方の呪縛を感じてしまった。


退屈な仕事な一方で、人間関係はそこそこだむた。毎朝上司にコーヒーを出して回ったり、電話に真っ先に出る、みたいな昭和を体現したような仕事をするのは新入社員だからなのか、女子社員だからなのか分からないが、久しぶりの若い女の子の社員ということでかなりチヤホヤされたし、気を使われていた。事あるごとにお土産と称して芋屋金次郎のお菓子を与えてくれたり(半年でほぼ全メニューを貰い物でコンプリート出来た)、体調が優れないときには、お休みを勧めてくれたし、そもそもいつでも好きな時に有給休暇を取らせてくれた。
けれど、今自分が高知にいるという実感は、なにか透明で蓋が閉まったビンの中に閉じ込められて、開くはずもないのに必死で内側から栓を押している、そんな感覚を覚えさせていた。

試用期間を終え、仕事にも少しずつ慣れ始めた頃、私は休みの日は毎週のように高知龍馬空港から成田空港までジェットスターで行き来する生活を送っていた。金曜日の午後お休みを取り、15時前の飛行機で成田空港へ。お金があればJALとかANAとかに乗って、羽田へ飛びたいが、仕方ない。荷物は小さなキャリーバッグに最低限の旅行セットを手に飛行機に乗り込む。到着するとすぐに電車に乗り込み、東日本橋で都営新宿線に乗り換えて神保町の安宿にチェックインすると荷物を置いて夜の街へ。たまにヘアサロンのためだけに東京に来ることもあるけれど、今日はどうしても飲みたい気分だった。

神楽坂の石畳を登ると見える、いつもの街並み。何も変わっていないはずなのに、酷く輝いて見える。裏神楽で1人飲んでいると、男性が声をかけてきた。体にぴったりとフィットしたチャコールグレーのスーツに、まるでさっきクリーニングから受け取って着ているかのようにピンと襟の立ったワイシャツ。靴のことはよく分からないけど、多分いい靴なんだろう。背筋も伸びていて、東京を感じさせる。

(どうしてこんな人は高知にいないんだろうか)
そう思いながら、白ワインのグラスを傾ける。適当に一緒に飲んだ後、家に誘われたが、実家に住んでて親が厳しい、と伝えるとせめて連絡先だけでも、と言ってLINEを交換するのが毎回のパターン。もう何回もこのやりとりをしているが、大体の男の人はその直後だけマメに連絡をくれた後、本当は高知にいるせいで誘いに乗らない私を見限って連絡をよこさなくなる。そんな一期一会を私は楽しんでもいた。

日付が変わっても静まらない神楽坂の浮揚した空気に後ろ髪引かれながら、タクシーに乗り込みホテルへ帰る。そんな夜を過ごして翌日の昼、成田から透明なビンの底へ帰るのだ。そんな生活をしていたので、毎月の給与はわずかに貯金ができる程度でほとんど使い果たしてしまっていた。


東京に帰る週末も、何も毎回1人で過ごしているわけではない。研修でずっと隣の席だったこともあり仲良くなった由梨枝とは2ヶ月に一度くらい会っていた。
「高知の生活はどう?っていってもよくこっちにきてるんだよね?」
「うん。やっぱり私東京の方が好き。由梨枝こそ、人事の仕事はどうなの?」
由梨枝の最初の配属は本部人財部。我が社は人材を人財と呼んでいて、どこか"ちゃんと頑張ってますよ"感がしてむず痒い気持ちになるし、就職活動のときに、会社にエントリーシートを出すときによく書き間違えたのを思い出す。
人財部にも、新卒採用担当、社内の人事担当、給与担当などさまざまな部署があるが、由梨枝は纏っているオーラを武器に、人財部の新卒採用担当として、説明会の運営やリクルーターの活動の他、採用SNSなんかの運用も任されているそうだ。たまに社内報やYouTubeで司会などしている姿は、東京人そのものだった。
「仕事はとても楽しいよ。まだバリューを出せているかは分からないけど、この前も提案した人事の広報戦略が採用されて、実施したらPVが1.3倍くらいになって、とてもいい経験になったんだよね。もちろん、提案を実行するまでがめちゃくちゃ大変だったんだけど。」
東京は高知の3倍くらいの速さで時間が進んでいるのだろうか。同期なのに、かたやお茶汲みで1日が始まる私とは成長速度がまるで違うように思う。
「今度高知に遊びに行くよ、日本酒がとっても美味しいし、実は行ったことないんだよね」
出来れば、高知に来て欲しくなかった。

みぞれ混じりの夜の雪が履き慣れたブーツの表面を濡らし始めたころ、私たちはタクシー乗り場に向かって歩いていた。かなり話も弾み、2人ともかなりお酒を飲んでいた。どうも由梨枝の方は、ちょっと飲み過ぎたようで私が手を引いてないと、電柱か何かを私だと思って喋りつづけてしまうかもしれないくらいの状態だった。なんとかお水を飲ませつつ、タクシー乗り場に到着した私は、由梨枝の家の場所は知っていたので、タクシーの運転手さんに申し訳なさそうに由梨枝の住所を告げ、由梨枝を押し込んだ。
由梨枝はうんうん言いながら大人しくタクシーに乗り込み、私に何かを言った。その内容があまりにもショックだったので、雑踏に降りしきるみぞれで聞こえなかったフリをして、由梨枝に手を振りタクシーを見送った。見送ったつもりだったが、もしかしたら立ち尽くしてしまっていただけなのかもしれない。


翌週は仕事に行けなかった。カーテンを閉め切った部屋から一歩も出ることが出来なかった。
ずっと由梨枝から言われた言葉が頭の中を駆け回っていた。

「イントネーションが少しだけ変わったね」


神楽坂での日々、ワイングラスを傾けながら聞いた話の断片や、通り過ぎた無数のスーツ姿。そこにいた自分が本当の自分だと信じたいけれど、同時に、高知の生活が自分の何かをあぶり出しているのではないかという疑念も湧き始めていた。それが由梨枝によってついに自覚させられたのだ。
日々働く中で、地元のお祭りや風景、宮崎で過ごしたあの湿気の多い日々を思い出させられていた。東京で無視してきた「地方」とのつながりが、再び自分の中に忍び込んでくる。それを振り払おうとすればするほど、自分が何に抗おうとしているのかがわからなくなっていった。
そんな心境の中で由梨枝から突きつけられた現実はかなり深く刺さった。

夜の帯屋町を、何かに導かれるように歩いていた。通りの喧騒は徐々に落ち着き、いくつかの店はすでに暖簾を下ろし始めている。それでも、夜の空気をじんわりと温めるように、ふと視線を横にやると、細い路地の奥にぽつんと灯る明かりが見えた。小料理屋の暖簾が風にそよぎ、その隙間から、控えめながらも温かみのある光がこぼれている。
吸い寄せられるように扉を押し開けると、ふわりと出汁の香りが鼻をくすぐった。静かながらも心地よいざわめきが店内に広がり、カウンター越しに大将の穏やかな声が響いている。数人の常連客が変わらぬ日常を楽しむ中、奥のテーブル席では観光客らしき男女三人組が地元の味に舌鼓を打っていた。
目をカウンターに移すと、そこに「東京」がいた。
濃紺のスーツは上質な生地の光沢を帯び、白いシャツの襟元はきちんと整えられている。ネクタイの結び目も乱れず、長時間の移動や仕事の疲れを感じさせない身なりだ。しかし、日本酒のグラスを持つ指先にわずかに力がこもり、時折視線を落としては、何か考え込むような仕草を見せる。
東京のサラリーマンらしい、節度のある佇まい。だが、ここ高知の空気の中では、その端正な姿がどこか異質にも見えた。
思わずしばらく立ち止まってしまったが、店員さんに声をかけられ、はっと我に返る。数席しかないカウンターの「東京」から一席空けた場所に案内され、腰掛け、注文を済ませる。
常連客たちが交わすゆるやかな会話が心地よく響き、店の空気はどこまでも穏やかだった。
そんな中、ふと隣から声がかかった。
「ここ、よく来るんですか?」
低めの、けれどはっきりとした声だった。声の方を見ると「東京」がこちらを見ていた。
「いえ初めてなんです。」
「地元の方ですか?」
「いえ、出身は東京で。仕事で高知に。」
「いいですね、こっちは飯も酒もうまいし、のんびりしていて。」
そう言いながら、男はグラスを傾け、軽く息をついた。
「でも、やっぱり東京のほうが落ち着きますね。地方に来ると、余計にそう思うんですよ。」
「東京」がいい終わるのと同時に、迷って選んだトマトスライス、だし巻き卵が運ばれてきた。
だし巻き卵からはとてもいい香りがして、数日ちゃんとしたものを食べていなかった私に安らぎを与える。
「東京」と「東京人」の話すこの空間だけは、きっと周りからは異質に見えているだろう。見ていますか常連客の皆さん、これが東京ですよ。

注がれた白ワインに少しだけ口をつけて、話を続けた。
「東京のほうが?」
「ええ、こっちは居心地がいい。でも、それってたぶん"非日常"だからなんですよね。結局、戻る場所はあっちなんです。あの慌ただしさも、人の多さも、たまに嫌になるけど、結局ないと落ち着かない。」
「東京」の言葉を聞きながら、私はカウンターの奥にかかる小さな時計をぼんやりと見つめた。東京。あの雑踏の中で、東京らしさを求めて生きていた頃。電車の振動、街灯に照らされた石畳、美しくスーツを着こなした人。
そう、そうなんだ。結局戻る場所はあっちなんだ。そう思いながらも、この「東京」にも地元の人と間違われたこと、由梨枝に言われたことがぐるぐると頭を巡る。
私は高知に染まる前に、東京に戻らなければ。1秒でも早く。
ゆっくりとうなづき、肯定した自分の声が、思った以上に遠くに聞こえた。

翌日も朝が早いから、ということで「東京」とはその店で解散し、タクシーに乗り込み帰路に着く。
目の前に広がるのは、温かく静かな高知の夜。
馴染みたい東京のきらびやかな夜と、馴染みたくない高知の静かな星空。時間は私の思った3倍の速度で進んでいた。


週明け、出社した私は、会社に辞表を提出した。



東京に戻った私は、小さなイベント運営会社に転職した。給料は前の会社より高くはなかったものの、そこそこやりがいを感じさせた。
イベントの企画書作成では、ターゲット層のニーズを分析し、コンセプトや内容を具体的に落とし込むことはもちろん、PR活動では、メディアにプレスリリースを送ったり、SNSで情報を発信したり、広報戦略にも携わった。
イベント当日では、スタッフの配置やタイムスケジュール管理、トラブル対応などを行い、アフターフォローでは、参加者へのアンケート調査や、イベントの成果測定などを行うなど、一つのものを大勢の関係者と作り上げていくことにやりがいも感じていた。
またイベントのゲストに有名人をアサインすることもままあり、有名芸能事務所などに直接オファーをしにいくことも楽しさの一つであった。もちろん納期と予算はかなりシビアであったし、高知で働いていたときと比べてやはり3倍の速さで仕事をしなければとても達成できず、全体をマネジメントし、たくさんの利害関係者や委託会社とのコミュニケーションエラーが発生しないようにするのは大変だった。それでも「東京で働いている」という実感は、私を満足させた。


東京に戻って一年が経った頃、私が会社を辞めた後、東京に戻っていることを知った由梨枝から連絡があり、丸の内で夜ご飯を食べることとなった。
あの日からなんとなく、由梨枝に連絡するのを避けていた自分がいたのは自覚している。でも東京に戻って多忙な毎日を過ごす中で、時折終電に間に合う時間に帰れた時に見上げる高層ビルの煌めきは、私に東京人たる自信を取り戻させていた。

一年ぶりにあった由梨枝はいつもと変わらないオーラを纏っていて、黒のタイトスカートに白いブラウスを合わせ、ジャケットを羽織っていた。足元には7センチくらいのヒールのパンプス。黒のバックが夜の高層ビルの光を纏って、やけに輝いて見えた。
細いグラスにスパークリングワインが注がれてからは、2人でこの一年間であった出来事を語り合った。採用から配置換えとなって、社内の人事異動などを担当していること、社内でも浮いた存在になっている社員が本当にいることに驚いたこと、総務課が”サナトリアム”と呼ばれ、いろんな部署でいろんな理由で心を病んでしまった人を一時的に隔離する部署になっていること、でも本当になんとかしないといけないのは社内で浮いている人に行かせる場所がないことなど、採用することより採用した後の方が大変なんだいいながら、いつの間にか追加で頼んでいた赤ワインのボトルの栓を開けていた。
私も転職してから今日までの話をしながら、注がれる赤ワインを見つめていた。それでも東京に帰ってきてよかったと由梨枝に打ち明けた。すると、純粋な顔をして由梨枝が問いかけた。

「「まだ東京以外には住めない〜」とか言ってるの?」
ワイングラスを揺らす由梨枝の声に、小さな棘が胸に刺さった。言葉にはしないが、その棘は意外と深かった。「そんなことないけど」とつぶやき、赤ワインを飲み干して誤魔化した。ムッとした自分を必死に隠そうとするけれど、つい表情が引きつっていたのがわかる。

私は、東京以外には、住めない。東京以外は私の居場所ではない。高知に住んでいた時にそう確信した。
私は東京人になれているのだろうか。東京人の由梨枝からは、私は同じ人種に写っているのだろうか。
東京人になれたのかどうか、そう考えているうちは”東京人”ではないのではないか。
東京人というのは東京に憧れる地方の住人が作り出した幻影なのではないか。
ぽっかりと心の中に生まれてしまった疑問を忘れ去るように、ワインボトルの栓が開いては、グラスに注がれていく。

由梨枝と別れたあと、タクシーに乗り込んだ私は、八丁堀徒歩3分の自宅になんとか辿り着き、玄関の扉を開けた。
家の明かりはまだ淡く暖かな光を湛えていて、書斎からはすでに0時を回っているのに、オンラインで打ち合わせをしているような英語が聞こえてくる。
カウンターキッチンの浄水器で水を汲み、一気にそれを飲み干したあと、部屋着に着替え、なんとなくベランダに向かった。
中央区20階建て、2LDK家賃35万円から見える東京タワーはすでに光を失っているにも関わらず、私の目には煌びやかにライトアップされて写っていた。
打ち合わせが終わったらしい彼氏が部屋から出てくるのがわかって、室内に戻る。丸の内のバーで出会った彼の家に住み始めてから、もう半年になるだろうか。
由梨枝に言われたことなど何一つ忘れてしまって、シャワーを浴び、シモンズのベットに包まって眠る。



私は東京を求めている。
私は”東京人”。

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