ゾミア紀行(5) 「アパタニの暮らす谷」(後編)
アパタニの女性たち
タゲ・タビンさんという地域のニブ(シャーマン)がいるというので、お話をうかがうために自宅へむかった。ところが、その人はほかの村へ出かけていて家には不在だった。その代わりに、タゲ・ヤポさんという名前の老妻が在宅しており、いろいろとお話をうかがうことができた。
彼女は年齢は数えていないので、はっきりとはわからないという。長年にわたる農作業によって顔が日焼けしており、顔には深いしわが刻まれていたが、健康を物語るようにその肌はつやつやしていた。80歳くらいに見える容貌ではあったが、実年齢はせいぜい60代後半くらいなのかもしれない。額から鼻の頭にかけて、見事な太い入れ墨を彫っており、あごに入れた数本のトゥペも、とても色が濃いものだった。ヤッピン・ホロウと呼ばれる鼻栓は大きくて立派だった。
「あなたが鼻栓を入れたときのことはおぼえていますか」
「アパタニの男性が竹のスティックを用意して、その先をするどく研ぐのよ。それで鼻の皮膚に突き刺して、穴を開けるのよね」
つづけて話をうかがおうとすると、タゲ・ヤポさんは何やら話をしながら囲炉裏のほうへ行ってしまった。どうやら調理中の鍋が気になっているようだ。そうして、蓋をしたり鍋の下に焚き木を加えたり、火のまわりに寄ってくる子犬を追い払ったり、忙しなく立ち働いている。しばらくすると、いったん落ち着いたのか、つづきの質問をすることができた。
「入れ墨を入れたときの様子を教えてください」
「やっぱり村の男の人たちがね、竹の棒の先をすごく尖らせたり、植物のトゲを持ってきたりしてね。それらを使ってあごに彫っていくのよ、墨を入れながらね。小さなハンマーで叩いていくから、それはそれは痛かったわ」
「鼻栓のほうはどうやりましたか」
「鼻栓は薪が墨になったものを使ってつくるんだよ。トゥペもヤッピン・ホロウも両方入れているのは、あたしたちで最後の世代じゃないかい。娘や孫たちの時代になると、もう廃れてきていたからね」と答えてくれた。
1944年にフィールド調査をしたハイメンドルフは、英語ではノーズ・プラグといわれる習俗について、次のように報告している。
写真家の榎並悦子による、アパタニのヤミャンという高齢女性への聞きとりでは、むかしの女性は10歳くらいになると入れ墨を入れるのが一般的だったという。この女性の場合も、針はやはり植物のトゲ、墨は調理鍋に残った煤と豚の脂肪を混ぜあわせたものを使い、当時の人たちは季節ごとに入れ墨をより深く、より濃くすることを楽しみにしていた。男性にとっても女性にとっても、入れ墨は大人になるためには不可欠なもので、それがなければ結婚の対象になることも考えられなかったとの証言を得ている。【*2】
これが本当だとすると、ぼくが他の場所できいた説は真実ではないことになる。それによれば、古来よりアパタニの女性は美しい人が多くて、ほかの部族から狙われたり攫われたりすることが多かった。そこで女性の顔に入れ墨を入れて、鼻に穴をあけて鼻栓を入れて、わざと醜くみせることで、それを防ごうとしたというのだ。これは旅行ガイドや旅行会社が流布した、あやまった言い伝えだということになるだろう。もし醜く見せるのが目的だったとしたら、親たちが子どもにそれを強いたり、女性たちが競うようにして入れ墨を入れたりしたことの説明がつかない。現代のアパタニ女性のひとりが、次のようなフォークロアを紹介していることからも、上記の説の信憑性は低いといえそうだ。
それでは、どうしてトゥペやヤッピン・ホロウのような習俗は廃れてきたのか。誰に聞いても教えてくれるのが、1973年ごろにズィロの町にアパタニ青年協会がつくられて、アパタニの人たちにおける一種の地位向上の運動がはじまったことだ。この協会はまさに道中で話を聞いたドゥユ・タモさんが所属する組織である。そのなかで、旧弊な悪習を棄てることが選択され、男性も女性も顔に入れ墨を入れて、鼻に穴を開けて栓をするような古い慣習をやめることになったという。その頃から、若い女性たちが両者を嫌がるようになったともいわれる。そうやって古い習俗がなくなることのほかに、何か時代の流れを感じるような事象があるか、タゲ・ヤポさんに質問をしてみた。
「昔といまと、ズィロ谷の生活で異なることはありますか」
「むかしは、やっぱり親の意見が絶対的だったところかね。子どもは親の言いつけには、なんでも従わなくてはならなかったよ。野良にいけといわれれば黙って野良にいくし、米を炊けと言いつけられれば薪の火を起こした。親のいうことに逆らうことなんて考えられなかったね。でも、今はそうじゃないだろ?」
そういったあとで、タゲ・ヤポさんが調理鍋のふたを開けると、立ちこめる湯気のなかから炊きたての白いご飯があらわれた。彼女は竹製のへらを手にとり、飯粒のなかに差しこんだ。そして、そこに付着したご飯を見て、炊き具合を確かめた。彼女の背後にある壁には、大きな角をしたミトゥンの頭骨が縦に4つ、横に2列ぶら下げてある。ほかに訪問した家庭では、これだけ多くの頭骨を目にしたことはなかったので、この老シャーマンの家がとても豊かであり、かつて隆盛を誇るような歴史をもっていたことがひと目で了解された。
女性たちの伝承
ある日のことだった。下スバンシリ県が運営する博物館で、アパタニの伝統的なテクスチャを織る機おりの方法を見せてもらったあとで、博物館の展示物を見て歩いていたときのことだ。ぼくは一枚の手描きの地図の前で、足を止めた。そこにはアルナチャル・プラデーシュ州を描いたシンプルな地図の上に、どの地域にどのような少数民族が暮らしているのかがわかりやすく、彼ら彼女たちが民族衣装を着ている姿で示されていた。タワンの町がある西カメン県には、モンパのほかにミジやアカの民族がおり、下スバンシリ県にはアパタニ、ニシ、タギンといった民族が暮らしている。これでも、まだ州内のほんの入口部分に過ぎない。東ヒマラヤの一帯に広がるこの州には、アディ、メンバ、ミニョン、パダム、ミシミといった、まだ見ぬ数々の少数民族たちが住んでいることが、簡易な地図のおかげでわかり、胸の鼓動が高鳴った。帰国してから本で調べたところ、アパタニという民族名称に関する次のような記述が見つかった。
少し前にも触れたが、アパタニとは「祖先の人間」の意で、複数の民族や部族のグループに共通する神話的な祖先を指す言葉である。それがアパタニの場合は、民族の呼称になっているのだ。1944年にズィロで調査したハイメンドルフは、まわりに暮らすほかの民族に比べて、アパタニの人たちが比較的裕福で安定した生活水準を続けてきたことの理由として、ズィロ谷の全体に広がる水田を中心とした農耕という要素をあげている。ハイメンドルフによれば、当時のアパタニは近隣の村やほかの民族とのあいだで、自分たちが生産した米を、奴隷やミトゥン牛や豚などと交換することで富を築いていた。
「伝説によれば、彼らの祖先たちがはじめて東方の遠い国からやってきたとき、この谷は沼沢地で、トカゲに似た巨大な怪物が棲息していた。先祖たちはそうした沼沢地を干拓し、ばかでかい爬虫動物を征伐して、耕作をはじめた」という創生神話をハイメンドルフは収集している。【*5】
たしかに、それから70年が経ったズィロ谷においても、アパタニの男性や女性、青年や少女たちが田畑で協同して働き、小川をせき止め、水田に水が流れこむように工事をしたり、大きなくわをふるって泥まみれになりながら田んぼを開墾したりする姿を、たびたび目にする。まわりの村や異なる民族との物々交換がうまくいかないときには、襲撃や略奪や儀礼的なものを含む首狩りの習俗といった衝突をくり返しながらも、アパタニが安定的に人口を増やすことができたのは、やはり田畑からの継続的な収穫という富の蓄積があったことが大きな要因であったと見てまちがいない。
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