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はじめての古文書学習(8) 「土地の名は。 ~私と地名とエトセトラ~」 吉成秀夫

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 世界地図より地球儀が好きだ。地球儀をくるくるまわすと、この惑星のほとんどが海なのだとわかる。半球ほぼすべてが太平洋しか見えなくなる角度がある。陸地は周縁部にほんのかすかに見えるだけ。海には小さな島々が散らばっている。目を凝らしたら、島の住民が見えてこないだろうかと夢想する。海に名前はいらない。
 
(1)
 大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天橋立  小式部内侍

 百人一首にも採られているこの歌は、三つの地名が詠みこまれている。大江山、生野、天橋立。たったみそひともじで平安京から天橋立までの遠いステップ(踏み)、娘と母との遠い手紙(文=ふみ)、その旅の気分を味わうことができる。それにしても素朴な疑問なのだが、なぜこうも和歌は歌枕にこだわるのだろう。歌人は行ったこともない土地の名を、そのイメージだけをとって歌に詠みこんでしまう。詠まれるたびに歌の中で地名のイメージは増幅する。
 
 陸奥のいはでしのぶはえぞ知らぬ書き尽してよつぼの石ぶみ  源頼朝

 日本人からみた蝦夷やアイヌへのイメージの変遷を古代から現代までたどった『アイヌ民族史の研究 蝦夷・アイヌ観の歴史的変遷』で著者の児島恭子は、本の序盤において「和歌にみえるエゾ」と題して「えぞ」「えびす」という語が含まれる167首もの和歌を抄出して検討している。めくるめく蝦夷イメージの万華鏡である。とくに崇徳天皇のサロンの歌人たちによって好んで「えぞ」を使った歌が詠まれたらしい。
 
 わたれどもえぞいひやらぬなかがわの水の心の浅く見ゆれば  大江匡房
 思ひこそちしまの奥を隔てねとえぞかよはさぬ壺の碑 
法橋顕昭、建久5年1194年
 
 貴族の和歌の世界で「えぞ」が流行したのは、未知の土地への興味やエキゾティックな世界を作品に表現したいという欲求があったのもさることながら、その「遠さ」「荒々しさ」が和歌に詩情を与えたからだろう。和歌に詠まれた「えぞ」のイメージは、具体的な実体や人間集団を描くことなく、ふわっと「遠さ」「荒々しさ」といった効果をうみだしている。
 
(2)
 それまでキエフ=Kievと呼んでいた地名がキーウ=Kyivに変わって2年以上が経つ。ロシアがウクライナへ侵攻を開始したのが2022年2月24日。まもなく日本の外務省は「ウクライナの首都などの呼称の変更」を発出した。これによりロシア語由来のキエフからウクライナ語由来のキーウへと一気にとってかわった。同じくチェルノブイリはチョルノービリに、オデッサはオデーサになった。(だからエイゼンシュタインの映画「戦艦ポチョムキン」のあの名シーンは「オデーサの階段」になってしまったわけだ。)この頃ウクライナの戦争報道のなかで、ロシアが支配した地名の看板をロシア語表記の看板にかけかえる映像がテレビに流れた。ロシアはまず地名を変更することによって、誰が土地を支配しているのかを知らしめたのだ。戦時下においては地名が闘争のアリーナなのである。
 
(3)
 アウシュビッツ。これはドイツ語の地名だ。もとはポーランド語地名のオシフィエンチムだったのを、ナチスドイツが占領してアウシュビッツと改名した。現在の地名はふたたびオシフィエンチムに戻っている。しかし、アウシュビッツの名のもとに記憶された過去があるのは確かである。
 ビルケナウ=Birkenauは、現在はブジェジンカ=Brzezinkaである。古いポーランド語で「白樺の雑木林」を意味する。アウシュビッツと同様にユダヤ人強制収容所のあった土地だ。フランスの美術史家ディディ=ユベルマンは、ビルケナウで樺の樹皮の写真を撮っている。いまは無くなってしまったホロコーストの歴史や記憶を直接表象することができないことを、樹皮の写真は逆説的に照らし出している。
 記憶の痕跡とは何か。地名をインジケーターとして風景を写真におさめようとする試みは、北海道においては露口啓二が行っている。風景写真のキャプションに地名の「現在の漢字表記」「アイヌ語の音の表記」「アイヌ語の意味」の三つを並べて記すことで、風景のなかに意味や歴史や関係性のレイヤーが幾重にも重なっていることを指し示している。と同時に、ときに微視的に、ときに広角に映し出される風景のうちの、どこまでの範囲がその名で呼ばれるのかということも問うている。自然に区画は無いのだから。構図化されないからっぽの風景こそが「場所それ自体」の記憶の痕跡なのである。
 
(4)
 文化人類学者・山口昌男は子供の頃、生地である北海道美幌町で、アイヌの人たちが「雁皮(がんぴ)はいらんかねー」と物売りをしていた記憶があるという。白樺の皮は火が燃えやすいため焚き付けとして重宝された。幼い山口が悪さをすると「ガンピのおばさんに連れてってもらうよ」と言って叱られたために、異人さんへの畏怖の念が自然と植え付けられたという。
『角川日本地名大辞典 第一巻 北海道』の月報に寄せた「北海道の地名と私」と題するエッセイで、山口は北海道のアイヌ語の地名の漢字音化は「歴史に汚点を残す許しがたい暴挙の一つであるような気がする」と書いた。生まれ育った北海道美幌町の町名が元来は「ピポロ」という「半濁音が二つ入る」呼称であり、網走は「アパシリ」、女満別が「メマンペツ」であることを中学生になってから知ったという。こうして一つ一つの地名の元の音を確かめたあとで、北海道の地名で自分が好きなのは漢字がかぶさっていないカタカナの地名であるといっている。カタカナの地名とはアイヌ語の音がそのままの形でのこっている地名だ。

 大学三年の夏休み、美幌峠から摩周湖のほうへ友人の車で旅をしたことがある。この時奥深い森林の遥か彼方の谷間に二つの細長い湖を望見したとき、あれはペンケとパンケという名の湖であるということを教えて貰ったときの驚きは大きかった。漢字標記が何となく気にくわないと思いはじめた頃のことであったので、このような人里を遥か離れた土地には片仮名標記の地名の残存が許されていたという事実に感動すら覚えた。
山口昌男「北海道の地名と私」『角川日本地名大辞典 月報36』昭和62年

 支笏湖、摩周湖、屈斜路湖など規模の大きな湖は漢字標記になっているが、ウトナイ湖など、比較的規模の小さな湖、川、山などはカタカナの地名が残っている。「微地名」とでも言うべき無数の小さな土地に、アイヌ語の音が残されている。山口はその微地名の音のなかに、近代化によっていまやすっかり失われてしまった、土地と人間とが結びつく叡知の「調べ」を聞き取ろうとしているのである。

蝦夷闔境輿地全図(嘉永7年)の安政7年の写図(部分)

 (5)
 古文書は、古い地名の宝庫である。いまは忘れ去れた地名が書き記されている。では、地名はどのようにして消えるのか。
 ひとつだけここで書いておきたいのは、北海道庁が昭和2年度から実施した字界地番整理事業だ。これによって字(あざ)の地区名が大幅に減らされた。昭和8年には同庁の基準において、字名は簡明なもので、読みやすく、文字は平易なものを選定することとして、アイヌ語は避けよ、と示された記録がある。昭和14年に入るとこのような表現は見られなくなるが、「難渋ナル地名ハ廃止スルコト」という項目は残された。区画整理の効率化によって、多くの土地にこだましていた微地名の響きが消えた。小さな土地の名が消えることは、小さな土地の記憶が消えることに等しい。 

(6)
 アイヌ語地名を採集するときの光景を思い浮かべてみると、すこし滑稽な会話が想像できる。アイヌ語地名研究の第一人者の山田秀三は「洞爺」という地名の由来を以下のように書いている。

和人がアイヌの案内で湖岸に出て、ここの名はと聞いたら、トー・ヤ(沼の・岸)だと答えた。それをこの湖の名として洞爺湖としたものらしい。他の湖でも湖の岸はトーヤなのである。アイヌ地名には固有名詞迄行っていないものがよく見受けられる。

 つまり、こういうことだ。
和人「ここはなんというところ?」
アイヌ「沼の岸(トーヤ)だよ」
和人「トーヤっていう名前なんだね、サンキュー」
アイヌ(いや、名前じゃなくて地形なんだけど、まいっか)
 このようなちぐはぐな会話によって「トーヤ」が記録されて、のちに「洞爺」の漢字が当てられ、しばらくすると元の音と意味を忘れてしまい、それを現代のアイヌ語地名研究者らが洞爺の本来の音は意味はと頭を悩ませる。
 アイヌ語地名は、地形や特徴を説明するような言葉が多い。「崩れる崖」とか「葦が生えているところ」とか「大きい川」とか。それらは固有名詞以前であり、生活に根ざした普通名詞である。
 冒頭で紹介した『アイヌ民族史の研究 蝦夷・アイヌ観の歴史的変遷』の著者・児島恭子の想像も面白い。

アイヌの生活を想像してみますと、親から子どもにあるいは知り合いに、目的地への道順を聞かれて教える場合に、「家の前の川を遡っていくと2つに分かれていて、小さい方の川沿いに行くと滝があるから」みたいに、たぶん説明するわけでしょ。だから、「分岐点」とか「小さい方の川」とか「滝があるところと」とか「その手前にマスが産卵するところがある」などという情報も教えることがある、というふうに想像します。

 この一つ一つが「地形の説明」であり、かつ「地名」である。このように、場所を示す言い方が代々伝わるのは当然であるが、これを固有名詞というべきか、普通名詞というべきか。たとえば「沙流川」と「斜里川」のように、「同じ音」だけど漢字表記が違う地名が多いのもむべなるかなである。このことはそのまま「地図」や「領地」という認識に対する根源的な批判になっている。
 なお、上の二つの引用は、2019年に北海道博物館で開催された特別展図録「アイヌ語地名と北海道」から引いた。山田秀三の言葉は孫引きである。
 
(7)
 私は、清里町に生まれ育った。もとは斜里と小清水の一地区であったが、昭和18年に分村し上斜里村となった。その後町制が施行され昭和30年に清里町となった。地名は小清水から「清」、斜里から「里」をとったという。
 斜里は、アイヌ語の音「サル」に漢字を当てた地名。
 小清水は、アイヌ語の意味「小さな冷たい川」に漢字を当てた地名。
 表音地名の斜里と、表意地名の小清水から一字ずつとって混淆したのが清里である。私はこの地名を気に入っている。いかにも北海道という感じがするから。
 
(8)
 アイヌの生活世界のなかで、ある場所についての呼び名は、シチュエーションによって変化する。網走のポロパラト(あるいはオンネパラト)という沼はタンネプトともイユクシトとも言われた。ポロパラトは「大きな広い沼」、タンネプトは「長い泥地の沼」、イユクシトは「それ(菱の実)をいつも取るところ」という意味であるという。(伊藤せいちの説。前掲図録より孫引き)
 清里方面から網走市街へ向かうと「車止内川」(くるまとまないがわ)の看板が見える。川らしき地形が見えないのは、この看板のある場所が暗渠の出口になっているかららしい。私は中学生時代にこの看板を見るたびに、なんとかダジャレにしたいと考えていた。「車止まらない」までは思いつくのだが、その後ろの「川」(がわ)の言い換えがどうしても思い浮かばない。この道を通るたびに私はダジャレを考えた。考えて考えて、どうしても思いつかないまま高校を卒業し、札幌に出て行ってしまった。それからは車止内川のダジャレで悩むことは無くなった。しばらくして、北海道の地名に興味をもつようになってから、ひさかたぶりに「車止内川」に再会した。しかし私はもう悩まなかった。私は「内」(ナイ)が「川」という意味のアイヌ語であることをすでに知っていた。そう、アイヌ語的には「クルマトマナイ」だけで意味が完結しているのだ。どうしてもダジャレにできなかった「川」(がわ)は不要だったのである。
 車止内の地名解については児島恭子『アイヌ語名の歴史』吉川弘文館2024、p.177を参照ください。車止内(くるまとまない)と黒松内(くろまつない)は同じアイヌ語が由来だそうです。
 さて、網走の「オロチョンの火祭り」はご存知だろうか。幻の海洋民族とされるオホーツク人の遺跡があるモヨロ貝塚において1940年頃から「モヨロ祭」として北方民族を慰霊する祭が開催された。終戦後の1950年には樺太から引揚げてきたウィルタ民族やニブフ民族の協力を得て「オロチョンの火祭り」となり、いまでは正式な網走市の夏祭りとして網走湖畔で行われている、あたらしい祭りだ。私が網走の高校に通っていたとき、網走湖畔にはウィルタ民族のゲンダーヌがつくった資料館ジャッカ・ドフニがあった。
 網走の元になったアイヌ語はなんと言ったのだろう。誰が、どんなときにその名を読んだろうか。いまはもうわかなくなってしまった。アバシリ、アパシリ、チパシリと口の中で唱えてみる。それよりもっと前、オホーツク人はこの土地をなんと呼んでいただろう。想像もつかない。
 網走になってから、網走監獄の映画が人気を博したり、ウィルタやニブフの人たちがやってきたり、のちに人類学者となる山口昌男が通学したりした。私が高校生のころは街中で自転車にのっているロシア人もよく見かけた。「網走」になってからの歴史も、現在進行形で積みあがっているのである。
 気まぐれな突拍子もない連想だと言われるかも知れないが、ふっと「老子」の言葉が思い浮かんだ。
 
道可道也、非恆道也。
名可名也、非恆名也。
 
 老子の「道」の理念をよく表した部分として知られているが、その書き下し文や解釈にはさまざまな説がある。これを安冨歩は「道というものは、可能性に満ちた道であり、常にどれか一つの道ではない、名というものは、可能性に満ちた名であり、常にどれか一つの名ではない」と解釈した。つまり、ものごとの道理も、ものの名前も、つねに一つではなく、様々な可能性があるということだ。


【執筆者プロフィール】
吉成秀夫(よしなり・ひでお)
1977年、北海道生まれ。札幌大学にて山口昌男に師事。2007年に書肆吉成を開業、店主。『アフンルパル通信』を14号まで刊行。2020年から2021年まで吉増剛造とマリリアの映像詩「gozo’s DOMUS」を編集・配信。2022年よりアイヌ語地名研究会古文書部会にて北海道史と古文書解読を学習中。
主な執筆は、「山口昌男先生のギフト」『ユリイカ 2013年6月号』青土社、「始原の声」『現代詩手帖 2024年4月号』思潮社、共著に「DOMUSの時間」吉増剛造著『DOMUS X』コトニ社など。

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