聖水少女16
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カクヨム
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三人分用意した食卓に座るのは二人。香織の姿はない。
「叱った方がいいんじゃないか」と父親は言ったが母親は賛同しかねるようで、「もうちょっと」と諭すように制した。
「天岩戸じゃないですけどね」
卵焼きを頬張り溜息一つ。母は続ける。
「自分から出てこなくっちゃ、解決にならないんですよ。そりゃあ、今のままじゃ何ともならないですけれど、だからといって叱り飛ばしり叩いたりして無理矢理に外へ引っ張り出すだなんてしたら、返って拗らせてしまうだけですからね」
「そんなものかなぁ」
「そんなものです。だいたい、今日まであの子を放ったらかしにしておいて、こんな時だけ親の顔して怒るだなんて虫のいい話ないじゃないですか」
まるで自分に言い聞かせるように母は言った。長年の放任を捨て置き、今更真っ当な親のつもりでご高説を垂れるなど彼女の品性が許さぬのだろう。
「そんな事より、早く食べてしまってください」
急かされた父は「それもそうかもしれん」と空返事をして朝食を片付けた。そうして玄関を出る際には「夜は作るよ」などとのたまったがあてにはできないだろう。日に日に遅くなっている帰宅時間が多忙な様子を伺わせている。家事など望むべきではない。とはいえ父親は元々仕事に生き仕事に死ぬような人間であり、母親もそれを承知で番つがいをやっていてるわけであるから別段気にはしていない風であった。
「気にしなくていいから、お仕事頑張ってくださいね」
母はそう言って玄関に立つ我が夫へ鞄を渡した。理解と思いやりももあるだろうが、香織のために休暇を取っているのだから家事は自分が負担しようという判断なのかもしれない。
「……行ってくる」
「行ってらっしゃい」
父親を見送った母親は家事に取り掛かる。食器を片付け、洗濯機をし、埃を取り、風呂を洗い、洗濯物を干し、小休止を挟んで昼食を作って香織に持っていき、一人で食事を摂って食器を片付け、厠を洗い、庭の手入れまでを流れるようにこなしていった。
庭の草むしりをしていると、母は何かに気がついたようで、植えられた松の木に近づく。ほのかに香る甘い匂い。それは紛れもなく、香織の尿の残り香である。実は昨晩。香織は厠へ行くのが億劫となり、隠れて松の下で花を摘んだのだが、その名残が未だ残っていたのだった。母はその場で佇み、何やら考えている様子。恐らくは、以前に香織が外で排尿した際に叱った事でも思い出しているのだろう。
あれは香織が幼稚園の頃だ。
春か、あるいは夏のはじめ。太陽の暑さが増し、じっとりとした汗が浮かぶ季節。香織と母は、近所の爺様から分けていただいたしいたけを縁側で干している最中であった。
「どうしてしいたけをお日様にあてるの?」
純朴な香織は乳歯が抜けた口元を隠さず、大きな声で母に聞いた。
「こうするとね。旨味が出るし、いい匂いがするんですよ」
「ふぅん」
間抜けた顔で頷く香織であったが、程なくして何かに閃いたように目を見開くと、これまた大きな声を出して母に言うのだった。
「私のおしっこもいい匂いがするよ」
母は呆気に取られ言葉を忘れた。あるいは、この時に上手く接していれば香織は真っ当な、ごく普通な人間として生涯を送れたかもしれないが、そうはならなかった。
「本当だよ」
無邪気に笑う香織は庭の中まで駆けると、おもむろに下着をおろし、皿のようにツルツルとした秘部を恥ずかしげもなく晒して勢いよく尿を滴らせたのだった。
揮発し、辺りに広がる甘く気品高い聖水。その芳香は確かに芳しく人を魅了するのに十分な魔力を秘めており、尿と知らなければ、さぞかし吐息を艶めかせた事であろう。しかし。その正体を知ってしまえば、まともな脳を持つ人間が受け入れられるはずがないのであった。
「やめなさい!」
走り出し、母は香織の頬を叩いた。乾いた音が塀を越え、沿う往来にまで聞こえるほどの平手打ちである。母は、疑いようのない、至極普通の感性を持つ人間だったのだ。
「はしたない! 二度とやっちゃ駄目!」
香織は返事をせず泣きながら部屋に走っていった。以来、彼女は親の前で尿をするのを止め(一度だけ見つかり厳しく叱責されたが)自らを律し過ごすようになる。
この件に関しては概ね母親が正しい。犬猫ではないのだ。人間は人間らしく、厠や雪隠で用を足せばいい。それを教えるのは子供を持つ親としては当然の教育であり責務である。そこに異議を挟む余地はないだろう。
だがそうだ。そうなのだ。香織はまさしく人間なのだ。犬猫と同じように接しては駄目なのだ。母の非はそこにある。香織の意思を無視し、一方的な暴力をもって矯正し躾けた蛮行は、間違いなく香織の心に深く黒い影を落としたのだ。
「……」
母は深い溜息をひとつ。鼻腔から空気を吸う。香織の香織が混ざった、よく澄んだ、華やかな空気を。
「本当に、いい香り」
声を落とし、空を見上げる。
瞳に映る広大な薄花色が彼女に何を見せたのかは、本人のみぞ知るところだろう。