見出し画像

第13走者 岩永洋一「1/3の純情な感情」

 「壊れるほど愛しても1/3も伝わらない
  純情な感情は空回り
  I Love Youさえ言えないでいる My Heart」
 
皆さんこんにちは、打順3番の岩永です。リレーエッセイも3周目に入りました。そのことを考えながらぼーっとしていたらこの曲が頭の中に流れてきました。多分「3」周目と「3」分の1が繋がったのでしょう。この曲は1990年代から2000年代に活動していたロックバンドSIAM SHADEの「1/3の純情な感情」の歌詞の一部です。この曲、その後も多くのアーティストがカバーする名曲となりました。
さて、今回はこのSIAM SHADEの歌詞に始まり、「3」という数字から色々書いていこうと思います。よければ最後までお付き合いください。
 
①  1/3の純情な感情
この曲で描かれる片思い、その「純情な感情」は、「壊れるほど愛しても1/3も伝わらない」んです。当時はそこに歯がゆさともどかしさを感じ、私も何度も何度も聴いていました。でも今振り返ってみると、「人の思いって相手にどのくらい伝わるんだろう?」という疑問を持ちました。
ちなみに、これは私のうろ覚えなのですが、「サンブンノイチ」という言いにくい歌詞をアップテンポで速く言う、そこにもどかしさを表現した、とSIAM SHADEは言っていたと記憶しています。なので正確に「1/3も伝わらない」と考えていたわけではないようです。ただこの、半分でもない「1/3」という微妙な数字がもどかしさとして当時受けたのは間違いないでしょう。
さてじゃあ、人の思いってどのくらい伝わるんだろう?という疑問に戻ります。というか自分で問題提起しておいてなんですが、この疑問はナンセンスです。それは、自分がどう思っているか、それをすべて把握することは不可能だからです。全てがわからないのに「1/3」なのかどうかもわかるわけがないのです。
そもそもまず人の「思い」というのはまだ言葉にもなっていません。それを自分の中で、既存の「好きだ」「愛してる」「悲しい」「怒ってる」などの言葉として把握し、相手に伝えるわけです。思いが全て既存の言葉にできない、というところにも不可能がありますし、上にも書いたように思いをすべて把握することにも不可能があります。じゃあ自分の思いを表す言葉を新しく作っても、そんなこの世にない言語は相手に伝わるわけがありません。
思いは言葉だけではなく、行動や声の大きさや速度、その時の表情などの非言語コミュニケーションでも伝わりますが、それでもすべてを伝えきることは不可能でしょう。だから思いは伝えられるけど全てが伝わるわけではない、となります。そもそも自分と他人、全てを共有することはできないのです。
歌の歌詞のように恋心が1/3も伝わらない、とは違う話ですが、思いがすべて伝わることは不健康です。内緒にしていたいことも伝わる、それは恐ろしいことでしょう。自分が伝えたいという意図がなくても自分の思いが勝手に伝わったらそれはもっと恐怖体験です。統合失調症で苦しむ方々の「思考伝播」という症状がこれにあたります。実際にそういうことが起きるわけではありません。脳みその異常活動でそう感じてしまうわけですが、そこには自分と自分以外の境界が取り払われてしまった恐怖の世界が想定されます。人間は自分とそれ以外の間に「境界」を持っています。物理的には皮膚ですし、思考も自分と自分以外の間に境界があります。だからこそ、自分の中で思いをとどめ置けて秘密が持てるわけだし嘘をつくことができるようになります。それは自分を守る意味もあります。
 
②  三角関係~エディプスコンプレックス
「1/3の純情な感情」は片思いの歌ですが、そこにライバルが出現する三角関係は描かれていません。だけど恋愛ドラマでは決まって恋敵が出て来て三角関係になり、だからこそそのドラマは売れる、ということがあります。三角関係は苦しいけど、どこか皆の心に普遍な何かなのでしょう。ここでは「3」角関係、その源泉となる「エデイィプスコンプレックス」について少し書いてみます。
「エディプスコンプレックス」は精神分析の用語であり、精神分析を作り上げたシグムント=フロイト(1856-1939)が提唱しました。この言葉は一般用語としても使われているので、御存知の方もいるでしょう。「幼児期に起こる、異性の親を手に入れようと思い、また同性の親に強い対抗心を抱く心性」とでも言いましょうか。男の子の場合、父親を敵視し、母親を愛情対象として見る、ということです(女児の場合は逆になります)。子供の成長に伴って、だいたい3-5歳くらいでこの心性は強くなります。娘さんから「パパと結婚する」と言われたり、息子さんからすごく敵視されたお父さん、息子さんから「ママと一緒に寝る」と言われつつ娘からはのけ者にされたお母さん、いるのではないでしょうか? 
ちなみに「エディプス」は、ギリシア悲劇「エディプス王」から来ています。エディプス王は、知らなかったとはいえ、父親を殺し母親を娶る悲劇を起こしてしまった人です。彼はその事実を知ってしまった時に、もはや現実を見ないように目を傷つけ視力を失いました。
ちなみにこの心性は小学校入学頃から一旦収まっていくと言われています。この収まる背景には、自分は大人ではなく子供であって、異性の親を手に入れることを諦め、同性の親のような大人になりたい、という思いを受け入れることと並行しています。エディプスコンプレックスはその後、思春期のホルモン変化に伴い再燃し、自分のパートナーを探すという形になっていきます。この心性の存在が三角関係のベースにあることは分かっていただけるかと思います。
エディプスコンプレックスにあらわされる思いは、希求性と嫉妬、満たされないが故の破壊性で、これらの力で我々の人生はいつも揺さぶられています。欲しいもの(人でも物でも名声でも知識でも力でも何でもいいですが)は全て手に入るとは言えず、だからこそそれを持っている人は羨ましくなり攻撃したくなる。生きるとはこの衝動との飽くなき戦いと言えるかもしれません。
 
③  サードポジション
さて、3つ目の「3」の話をしたいと思います。それはサードポジション、つまり「第「3」の位置」という言葉です。別にこれは野球の三塁手のことではありません(笑)。
「第3の位置(サードポジション)」は英国の精神分析家ロナルド=ブリトン(1932~)が提唱した概念です。上にも述べたようにエディプスコンプレックスは恋愛、そして社会を生き抜くために必要な力でもあります。だけど、実際に満たされてしまうと(同性の親の傷害と異性の親との結婚)社会的な大問題になります。大人になって嫉妬のままに他者を攻撃しても、程度によっては大問題になるでしょう。自分が持ってない欲しいものを持ってる人がいるんだ、という事実は受け入れるしかありません。しかしそれは努力や根性や気合では受け入れられないから、やっぱり嫉妬し、片親を排除しもう片親を手に入れたい、大人の場合は恋敵から好きな人を奪いたい、自分の欲しいものを持ってる人から奪いたい。このように抱えておくのが苦しい心性とも言えます。
ブリトンはその状況を受け入れるために、自分が片方の親と繋がっている関係性を考えました。つまり、お母さんとの楽しい時間があるでしょう、例えばそれは父親が仕事で帰りが遅い日に2人で夜ご飯を食べた記憶かもしれません、具合が悪い夜に眠りに落ちるまでさすってくれた温かい手の感触かもしれません。お父さんとの楽しい時間もあるでしょう、例えばそれは一緒に公園でキャッチボールをした記憶かもしれません、転びそうになった時に支えてくれた力強い腕かもしれません。そういう自分と片方の親の関係性の時には、もう片方の親がかつての自分と同じ立ち位置、つまり二人の関係を観察する位置に行くわけです。でもそこで観察している親は自分達の関係を邪魔しに来なかったじゃないか、それに自分が片方の親に憎しみを向けても反撃してこなかったじゃないかと思える、そしてカップルを見る位置(第三の位置)を受け入れ、三者関係を受け入れていく、という考え方です。その位置を受け入れることができれば、思いに突き動かされて行動するだけでなく、観察する力を手に入れ、色々なことを考えることができるようになります。そして受け入れができるようになるためには、親の(特に母親の)、子供の心を支える力が必要になります。
個人的には、この受け入れのために親の力だけでなく、祖父母の力や同胞の力が役に立つのではないか、とも考えています。また、親の子供の心を支える力についての具体的な関りとして、おんぶの体験が有意義ではないかと考えたことがあります。子供が、(例えば)母親におんぶされて背中のぬくもりと安心感を感じつつ、母親が弟妹の世話をしたり父親と話しているのを見て三者関係を体験する、この背中のぬくもりと安心感が三者関係の受け入れを手伝うだろうということです。
上に書いたのは理想的な第三の位置の獲得の在り方です。ただし実際は親にも何かしらトラウマがあって見守れない、子供を抱えることができずに攻撃してしまう、などでこの位置の獲得は困難なことがあります。それゆえに苦しんで、我々のところに来る方々がおられるのも確かです。そのような方々にとっては親との体験は自分を虐げるもので、自分を守るために「観察」などしておられず、反撃に転じざるを得ないのです。
そして第三の位置を獲得したとしても、両親や自分の欲しいものを持っている人に対して欲求不満が解消するわけではありません。どうしても欲しいものは欲しいし、知りたいものは知りたい。自分が両親の間に入ろうとしても、両親には自分の知らない時間、両親だけの関係性がどうしてもある(それこそ、人の思いを全てわからないように、人の人生すべて知ることはできないのです)。自分は全てを手に入れることはできない、でも支えてくれた人の心がある、その思いで満たされなさを持ちこたえて生きていくことが必要なのだと思います。おそらく精神分析やセラピーと言われるものは、この感情に直面するからすごく苦しいのですが、この受け入れがたい現実を受け入れるための、第三の位置を獲得するための手伝いなのだと思います。
 
「3」周目になり、思いつくままに「3」つの「3」を書いてみました。今の私は「まだまだいけんだろ!」とアドレナリンが溢れているテンションで、書きたいことがどんどん出てきそうです。そしてこの勢いでこれまで書いてきたので、杉本先生から受け取ったバトン(薬屋のひとりごととか葬送のフリーレンとか)を全く生かせませんでした・・・。フリーレン、フェルン、シュタルクに見える三者関係は、フリーレンが一番年上なのに、かなりの時間彼女が娘に見えて興味深いけど、どうしてなんだろう? 猫猫の冷静なまでの観察力・推理力は、サードポジション獲得によるものだと思われるけど、大変な家庭環境の中で彼女のエディプスコンプレックスはどのように発展し、どうサードポジションを獲得したのだろう? とか、書けそうなことはたくさんありそうです。ですがこの切りのいいところでぐっと我慢して次にバトンを渡し、次の走者が書くことを観察することが私のサードポジションなのだと思います。では、次走者、よろしくお願いします。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?