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第17走者 杉本 流:文豪ストレイドックスの精神分析

川谷先生のバトンが「もののあはれ」だったのでそれに関連した作品です。前走(12走)で書いた「ギャップ」について触れたかった作品でもあります。
 
私がエッセイ用の作品を選ぶきっかけは、来院している人達から紹介されたり勧められたりするものがほとんどです。今回は古本屋に寄った際に1巻2巻を見つけ「この間の子が好きだって言ってたな」と思い出し、購入して読んで書きました。なので、2巻まで読んだだけの知識で作成しています。
 
 
・文豪ストレイドックス(以下、文スト)(漫画/アニメ;2012年~)
 
 
基本的にバトルメインの作品は、登場キャラの言動がいかに魅力的かにかかっています。つまり、出演キャラに哲学的・心理学的・宗教学的・精神分析的な「なにか」が含まれていると言っていいでしょう。古くはギリシア神話やケルト神話なども長く語り継がれているバトル作品(戦記作品)です。出てくる登場人物たちはとても個性的かつ魅力的です。正確には、語り継がれるうちに魅力的な形に変えられてきたともいえます。話に尾ひれがつくってやつです。この「魅力的だと感じる」部分に哲学的・心理学的要素が含まれているのだと思います。
 
では、文ストはというと「過去の偉人(文豪作家)」がモチーフです。偉人の作品や人生が詰め込まれています。19世紀の「ロマン主義」と呼ばれた哲学者たちは、たとえば赤ずきんや白雪姫などの童話や小説などのファンタジーから生まれたキャラたちは「肉体を持たずとも(多くの人々の頭の中に共通した姿でいるのなら)生存しているのと大差ない」と考え、思考から生まれたものにも「命」があると考えました。ここでいう命とは心臓が動いているということではなく、その存在価値のことを言っています。文ストのキャラたちは実在した人々ばかりなので、命を与えやすい存在です。今風にいえば「推し」やすいというべきでしょうか。
 
さて、その中で3人だけピックアップしています。他にも何人か書いてみたのですが、長くなるのも嫌なので削りました。正確な人物評というよりは、キャラの言動をみて派生して頭に浮かんだことを書いています。
 
以下はいつもの通り、若干のネタバレと個人的な考察です。御注意くださいませ。
 
 
 
 
①中島敦
彼の史実作品「山月記」。川谷先生が平成12年に作成したエッセイにも登場します。小説のほうは自己愛・自尊心・羞恥心に関連する作品ですが、文ストにおける哲学的要素は以下二つでしょう。
 
 ・罪悪感
作中の彼は自分が他者に迷惑をかける存在として自己卑下し、申し訳なさに苦しんでいます。罪悪感というものが非常に強い人物です。罪悪感をテーマにした作品・思想は多く挙げればキリがありませんが、一番有名なところを上げれば「キリスト教」でしょうか。キリスト教(特にカトリック)は簡単にいうと、布教時に「全ての人は原罪(生まれながらの罪)がある、だから神に祈って許してもらうように」と説いて爆発的に受け入れられました。人々が心の奥にしまい込んで忘れていた「罪悪感」を刺激して表に出すことで、受け入れられたのです。カトリックのシンボル「十字架」を見たことありますか?あれ、磔にされたイエスの聖遺物(御遺体)なんです。遺体を毎日拝み、しかもその原因が自分(自分の祖先)にあると聞かされれば、罪悪感に心を打たれるかもしれません。
 
 ・変身/成長
トラに変化・擬態・変身(メタモルフォーゼ)する能力は史実「山月記」の描写そのままです。この変身は罪悪感や不遇からの脱却・成長を意味します。幼児がウルトラマンや仮面ライダーやプリキュアを大好きなのも、この心理機制からです。成長途上の子供は、一気に成長するヒーロー・ヒロインの姿を自分に重ねて自分の夢に繋げます。ポケモンの進化とか、「鬼滅の刃」我妻善逸も同じ理由で人気です(第2走参照)。この変身タイプ、ほとんどが「(今の)自分が嫌い」と話します。まだ成長できる子は「自分が嫌い」なのです。だって、今の自分に満足していたら変わる必要がない=成長しないのですから。思春期の子が自分のことを大嫌いになりやすいのは、そういうわけなんです。
 
②国木田独歩
独歩に関しての考察が今回のリレーバトンに関しての中核になりそうです。彼の魅力は「ギャップ」「もののあはれ」ではないかと考えています。
 
 ・ギャップ
彼は常に二つの側面を持って生きているように見えます。いわゆるギャップといわれるものです。見た目や性格に意外性や激しい差があると「魅力的に見える」のですが、それを地で言っている人物です。几帳面で生真面目、スキのない性格と思いきや、抜けてて周囲にからかわれるピエロのような役割もあります。普段厳しい人が見せる優しさや、普段優しい人が見せる怒りが際立つということは、実生活でも感じますよね。この現象は、ヒトが想像や思考の死角を突かれると快感を覚えるという心理学的要素を利用していることになります(第12走参照)。
 
・変装/隠蔽;(眼鏡・仮面・マスク・包帯)
独歩は眼鏡をかけています。ギャップとも関連することになりますが、眼鏡を代表とする「顔の一部を隠す」ことは魅力につながることがあります。他作品では呪術廻戦の「五条悟」は作中で常に両目を包帯で隠していましたが、ずっと包帯をしていたままだったらあそこまでの人気者にはならなかったでしょう。彼は、たまに素顔(特に、眼)を見せることによってその人気を手に入れたのだと思います。ビジュアル的にも、心理学的にも。ギャップも眼鏡も、読み手の想像力を刺激するという点では同じだと言えます。つまり、独歩が好きな人は「隠れているもの(素顔)を想像する楽しみ」を知っている人ということになりますね。
 
 ・時限/有限:(手帳)
余談ですがイメージの問題で。独歩の能力は手帳のページを使うことで発動するのですが、このページを使うという行為は「限りあるもの」を消費して、削って行使していると言えます。2巻までだとこの手帳が有限であるかのような記述でしたので、ここではそのようにして考察しています。
 
元々日本人には「判官贔屓(はんがんびいき)」という文化があります。ここでいう判官とは源義経という鎌倉時代の武将のことで、兄である源頼朝は鎌倉幕府の創始者です。この兄弟は、とある理由で争い最終的には兄が弟を殺すことになるのですが、どういうわけか後世の人たちは弟の義経のほうに同情するようになります。義経が絶世の美男子だったからという説もありますが、どうも日本人には悲哀の感情(当時の言葉で「もののあはれ」)を美しいと感じる習性があるようで、不利なほうや負けてしまいそうな方に心が動きます。
 
高校野球などで特に思い入れも無いのに、負けそうな方を応援したくなったことはありませんか?これは諸外国では珍しい事だったようで、室町時代の宣教師(フランシスコ・ザビエルなど)が不思議に思っている書簡があるそうです。要約すると「キリスト教を広めるために聴衆を集める際、諸外国では楽しい話や漫才、ハッピーエンドにすれば人は集まっていた。だが日本人は、悲しい話や苦しい話を好む傾向にある。不思議な国だ」と書かれていたとか。
 
自分や何かを犠牲にして何かを得るという「自己犠牲的行為」(現代風にいえば「死亡フラグ」でしょうか?)は、この悲哀の感情を強く刺激するものとして日本文化では度々出てきます。歌舞伎、能、狂言などでもこのテーマは人気です。独歩の手帳には、このような要素が詰め込まれているのかもしれませんね。
 
③江戸川乱歩
推理小説作家として有名な彼は、文ストでも類い稀なる推理力を発揮して活躍します。推理小説作家は結末が分かって書いているのだから、それがモチーフの能力なのだと思って読んでいたのですが…彼は作中の他の人物たちと違い「異能」をもっていないようなのです。本人が「自分には異能が無い」と気づいているのかどうかで評価が変わりますが、彼の傲岸不遜な態度は「躁的防衛」と呼ばれるものの可能性があります。2巻までではどちらかわかりませんでした。
 
・躁的防衛
ヒトは怖かったり叶わないと思った時に、虚勢を張ったり、できもしない嘘をつくことがあります。そうすることで自分を大きく見せて、自分自身を奮い立たせ、相手に自分を大きく見せようとする心理が働くのです。これを「躁的防衛」と呼びますが、その行動をとっている可能性があります。背景には「ありのままの自分自身を愛せない」という自己愛の欠落が起きているといえます。
 
・自己愛
周りから見れば自己中心的な思考をしているように見えますが、自己愛と自己中は違います。自分を愛する自己愛とは、自分の欠点をも愛する力で、諦念や受容といった力が必要となるものです。自己中も自分を愛するという点では同じですが、こちらは基本的には自分の長所しか愛することはありません。
 
 ・承認欲求
これらの問題は、乱歩が周りに認めてもらいたいという欲、すなわち「承認欲求」というものが強く出ているからと言えるでしょう。ヒトであれば誰もがもっているものですが、この承認欲求の厄介なところは自分自身で手に入れることがほぼ不可能であるということです。自分で自分を褒めても空しくなり悲しくなってしまうため、他人からしかもらうことができない。作中の乱歩がもしかしたら苦しんでいるもの、かもしれません。この点は、川谷先生が書かれている哲学者スピノザの「名誉欲」に関連する部分とほぼ同じです(第10走)。
 
 
以上、文豪ストレイドックスの精神分析でした。みなさんも自分の好きなものに「なぜ」「どうして」惹かれているのか、考えてみると面白いかもしれませんよ。それこそが哲学や精神分析の始まりですから。

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