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【日記】正直であることと引き換えに何かをもらおうとすることについて


 
 書きかたをいままでと変えようと思い、文体論の本を読んだ。
 
 取り組んでいる原稿で、ちょっと壁にぶつかった。いや、ぶつかっている。現在進行形で。
 なんとなく、いまの書きかたが合っていないような感じがしたのだ。サイズの小さいパンプスに足を無理やり押し込んで歩いている感じというか。つま先にもかかとにも靴ずれがいくつもできていて、勢いだけで走るにゃそろそろ限界だよと、体から言われたような、そんな違和感。
 ほんで、「文体」についての本をいくつか買ってみたのだが、これがまあ、すごい。反省することしきり。なんでもっとはやく勉強しておかなかったんだろうと、ページをめくるたびにため息が出る。
 今日読んだのは、中村明『日本語文体論』(岩波現代文庫)という本。


 「文体」とはそもそも何か、文章のどういうところに作者の色があらわれるのか。一文の長短、文字数、単語の選び方、韻、比喩、漢字をつかうタイミング、句読点をどこに打つか、「女性的」「男性的」な印象を与える文体の特徴とは何か、「古い」「今っぽい」という印象を与える文体にはどんな語彙が使われているか、などなど。とにかくありとあらゆる方向から「文体」というテーマに光を当てていて、それはもう、すばらしい読書体験だった。学びは多く、読みものとしても面白かった。読書も執筆もますます楽しくなりそうだ。
 
 さて、本書を読んでいて、どきーっとしたところがひとつ。もちろん、つい二度読み、三度読みしてしまった一文はいくつもあったのだけれど、そのなかでも。

“どの作品にも、なんらかの意味で、書き手の在り方が反映する。と同時に、そこに投影する作者の姿は多かれ少なかれ作品化された”私”である。文学という行為が基本的に抱えている本質上の”虚構”という問題に注意したい。”

“太宰の場合で言えば、あの並外れたナルシシズムの露呈が、事実の純粋に客観的な記述であったとはとうてい思えない。たとえナルシストの一面を象徴する個々の出来事がすべて実際に起こったことを素材にして書かれたにもせよ、結果としてそこにあるものは表現であって事実そのものではない。並の人間なら蔽い隠すかぼかすかする素材を、逆にことさら目立たせ、あれほど剥き出しに迫る作品は、現実そのものの全貌と、その濃淡や陰翳にかなりの隔たりを見せているにちがいない。”
 

 
 そうなんだよね、文章として一度言葉にしている時点で、原稿用紙に、Wordに、ブログに、会話にアウトプットされた表現にはかならず、書き手としての「私」の操作がはいってしまう。いくら正直に書こうとしても、ありのままを赤裸々に表現しようとしても、それは操作された「正直」であり、操作された「ありのまま」であり、操作された「赤裸々」なのだ。
 私は文章を書くうえで自分の気持ちをそのまま、できるだけ忠実に言葉にしたいと思っていたけれど、どだいそれは無理な話で、つまるところ「ありのままでいようとする私」を「書き手の私」が演出しているだけだ。ほんとうの正直ではないし、それを演出しようと意図的に書いている時点で、そういう書きかたをしない筆者にくらべて、かえって「正直」から離れていくような気さえする。……って、じゃあこういうことを書いているこのnoteはなんなのよ、どういうつもりなのよ、とか考えだすときりがないんだけど。はあ。
 
 ただ、ほんとにさ、あるんだよね、「正直さ」と引き換えに、相手に何かをもらおうとしてしまうこと。これだけ正直になったんだから好きになってちょうだい、ゆるしてちょうだい、みたいなせこい自分が、いつも私の背後にいる。
 しっしと、そいつを追い払う努力をしなければ。言葉にしたらそれはもう事実ではない。言葉の危うさを自覚したうえで書く。
 
 なんというか、いろんな意味で私は「書くこと」についてかなり驕っていたというか、わきまえるべきことをわきまえていなかったというか。ちょっと落ち込んでしまった部分もあった。でも面白かったー。文章表現の世界の広さに「ひっ」と足がすくんだ読書。いやほんと、勉強になりました。




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