【日記】「前から思っていたことをこの人は言語化してくれた」と頻繁に思うとき、問うべきこと。
自分だけの「正しい」をちゃんと守れる人でありたい、と思う。守れているか? と問う。誰かに決められた「正しい」でもなく、誰かへの憧れを投影させたがゆえの「正しい」でもなく。
私が、私の頭で考えて決めた「正しさ」がほしかった。自分にはそういうものがないと、10代の頃から不安だった。遠くまで走ってもふりかえればぱっと見つかるような、まっすぐでしゃんとした旗印がほしかった。
あるとき、もう決めてしまおうと思った。19歳の頃だ。いろいろな言葉を調べ、自分にしっくりくる「何か」を探した。なんとかしてすがりたかった。そのとき結局、何を旗印にしたんだろう。もう思い出せないくらいだし、今ではその「正しさ」は私の旗印にはなっていないけれど、何かしら、「座右の銘」みたいなものを、自分で決めたのだと思う。私はこれでいく。私はこういう生き方でいく。はい、もう決めました! そんなふうに。
人生における指針とかポリシーみたいなものというのは、そうやってとってつけたように決めるもんでもないだろうと思うけれど、未来がどうなるかもわからず、自分という人間に対して不信感しかなかった当時の私にとってそれは、藁にもすがるような思いで決めたことだった。私はちゃんと、正しさの軸みたいなもの、哲学みたいなもの、誰に何を言われてもこれさえあれば立っていられる、というようなもの——を持っている、と思いたかった。決めたかったのだ。自分のために。自分だけの意思で。なんの役にたたなくても、誰に褒められることもなくとも。
あの頃のひたむきさが、今のわたしには足りていないんじゃないか、という気がしている。揺さぶられている。揺さぶられまくっている。たとえばSNSで、たとえば仕事の現場で、「人って、こういう生き方をしてちゃだめじゃないですか」みたいな言葉を見かけると、あれっ、たしかにそうかもしれない、と思ってしまったりする。その言葉に、何万という「いいね」がつけられていたなら、なおさらだ。「〇〇さんは、言うことがやっぱり違うなあ」「わたしも前からそう思っていたんですよ」なんて、称賛のコメントを見かけてしまった日には、もっとだめだ。その意見は、別に自分が思いついたものではなかったとしても、まるで前々から自分はそれを「正しい」と思っていたかのようにごく自然に、自分の正しさの肉襞の中にぎゅむとめり込んで、わたしの一部になってしまう。
「前から思っていたことをこの人は言語化してくれた」と、その人に会うたびに、その人の話を聞くたびに思う相手がいた。ぱきっとしたビビッドな言葉で、その人が、その人なりの哲学を語るたび、私は「そうそう、そうなんだよ」とうなずいた。でもちがうんだ。ちがうんだよ。それは、「正しさ」を決める責任を、その人に預けているだけなんだ。自分の代わりに「正しさ」を背負ってくれる誰かを見つけたいだけなんだ。そのほうがずっと楽だった。自分がなにを正しいと思い、どんな生き方をしたいと願うか、いちいち自分の脳みそをひねりまくってエネルギーを使って考え出すより、「あなたの考えていることは、こういうことですよ」と言葉にしてくれる拡声器を見つけ、「わたしも前から同じことを思っていました」とそのうしろをついて回るほうが、お手軽だった。
19歳のわたしがつくった自分なりの法律は、欠点だらけで拙かった。筋の通っていないところもあっただろうと思う。
でも少なくとも、その正しさの責任を、他人に預けてはいなかった。自分のものだった。「正しいとは、なんだろう」と頭が痛くなるまで考え続け、毎晩机にがりがりと向かっていたあの時間を、私はたぶん、もっと誇りに思うべきなんだろう。
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