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【執筆日記:9月3日〜22日】いい文章を書くのに必要な「適切な恐れ」/帰り道の雨/江ノ島トリップ

書いているあいだに気づいたこと、考えたこと、感じたことを忘れたくないと思って、執筆日記を書き始めた。そのときの感情はそのときだけにしか味わえないものだからね。と言い訳しつつ、自分を励ますためにメモしているだけかも。

9月3日(火)
 
朝、散歩に行く。いいアイデアを思いついた。帰り道に雨がふったおかげで雨の描写のストックが増えた。
 
9月4日(水)
 
区切りのいいところまで書き終わった。今日は物語の山場になる部分を書いた。エネルギーを大量に使ってへとへとになった。
このごろ、あらためて「小説を書くとはどういうことか」という問いにぶつかっている。小説ってそもそも何? どうやって生まれたの? 最初に小説を書こうと思った人はどういう形式で書きたかったの? 世の評論家たちは、小説のどういうところを読んで「これはすぐれた小説だ」「これは小説として大事な要素が欠けている」と判断しているの?
……とまあ、たくさん書けば書くほどわけがわからなくなり、永遠に「なんで」を製造するマシーンと化してしまったので、基本的なところから勉強しようと思い、小説論・文学論についての本をいくつか注文した。で、そのうちの一冊が筒井康隆大先生の『文学部唯野教授』(岩波現代文庫)だ。いやはや、さすが筒井先生、もう、すごい。タイトルのとおり文学部の唯野教授を中心とした物語で、目次構成は全9章。第1章が「印象批評」、第2章が「新批評」、第3章が「ロシア・フォルマリズム」、ってな具合でそれぞれの章に毎回、唯野教授によるわかりやすい文学講義があるのだが、もちろんそれだけではなく、一冊通して読んでも面白い。大学が舞台というだけあって登場人物もみんなとにかく濃い! 文学について学べる上、ぷー、ぶぶっと吹き出してしまうような爆笑シーンも多く、なんてお得な小説なんだろうとつねづね思いながらページをめくっている。
いや、それにしても文学についてきっちり学ぼうとするのはじめてだけど、面白いなあ。大昔を生きたみなさんの試行錯誤が結晶したものが、いまの「小説」なんだね。一冊の本を読むということは、それを書いた著者と出会うことでもあるけれど、それだけではなく、その著者が影響を受けた大勢の作家たちとつながることでもあるんだなあと、あらためて。
 
9月5日(木)
 
今日からまたプロット。ストーリーの流れを考えるのは面白いが、本当に頭を使う。
文章を書くのは、「書くのが好きな人」より「調べるのが好きな人」のほうが向いているとつくづく思う。
 
9月14日(土)
 
まーたもや間があいてしまった。わ、わたしはもうダメだ。毎日バタバタしすぎて、せっかく考えたことも思いついたことも、ばたんと布団に飛び込んだ瞬間にぜんぶ忘れっちまう。はー。だからこそ執筆日記を書こうと思ったのに。
ダメですねー、まったく。
 
9月16日(日)
 
1日家にこもって作業。出だしがどうもしっくりこず、書き直してみたらいい感じに。
 
9月20(金)
 
編集者さんにアドバイスをもらった箇所を書き直す。気分転換に歩く。少し歩いたところにいいカフェを見つけた。机が広くて作業がしやすい。大学生がたくさんいて、本を山のように積み上げてPCとにらめっこしている人も。
ストーリーの流れが詰まってきたためあらためて『SAVE THE CATの法則』を読み返すなど。面白いセリフが書けた気がする。どうだろう。ちょっと頭がカーッとしていてまだわからない。
 
9月21日(土)
 
原稿がある程度すすんだ。江ノ島まで海を見にいく。今週は小説以外にもやることがいっぱいあって、脳みそがからからにひからびた。
昼間に運よく食べた生しらす丼がちゅるちゅるであっという間に食べてしまった。新鮮な生しらすのうまさはもちろんだが、味噌汁に入っていたわかめが「ムッ」と声が出るほどおいしくてびっくりしてしまった。注文が入ってから海にもぐって、たった今ちょきんととってきたんですよという感じのぷりぷりぐあい。いやー、「わかめっておいしいんだな……」とつぶやく日がくるとは。
しらす丼屋さんのキッチン担当はおばあさんだった。おそらく70歳くらい。「はーいお待ちどうさま」という声がとても明るくて素敵だった。元気になった。
行き帰りの電車のなか、スマホで小説を読み返す。スマホで見ると新しい発見があったりする。うん。大丈夫、やっぱり面白いよと自分に言い聞かせる。
 
9月22日(日)
 
資料の確認が必要で図書館に行く。原稿をやる。ひたすら原稿とにらめっこ。
文章を書くのに必要な「適切な恐れ」について考える。文章を書きはじめたばかりのころ、私には「恐れ」がなかった。ただ書くのが楽しいという気持ちだけで、書いてアウトプットした先、読者の目に届いた先で何が起こるかなんてきちんと考えられていなかった。というか、うまく想像できなかったのだと思う。
「恐れ」がなかったから、「こうすれば面白くなる」という文章や物語のセオリーを鵜呑みにしたし、それが機能しない可能性について考えたりもしなかった。当然ながら、セオリーはセオリーだ。うまくいくときもあればいかないときもある。誰かにとっては正しくても、誰かにとっては正しくない場合がある。
ただ反対に、脳みそのうつわが「恐れ」でいっぱいになって、どうやって書けばいいのかわからなくなってしまったこともあった。どんなに気をつけても、自分の意図通りに伝わらない。意図通りに伝わったとしても、自分の考え方や言葉自体が、読んでくれた人の心の中で暴発してしまう可能性だってじゅうぶんにありえる。鋭く刺さりすぎてしまった場合、私はそれに責任をとれるのか。
いまは、少しはそういう「恐れ」を飼い慣らせるようになってきたけれど、それでもまだ、延長線上にいる。私の背後にはいつも、どこか怖さがある。怖い。書くのは怖い。
ただ、そういう「恐れ」があるからこそ書けるようになったものもあると思う。何も恐がることなく、疑うことなく、キーボードを無心で打ち込んでいた、あのころならではの、子供のようにまっすぐな文章もいいけれど。よかったけれど。ああいう文章を、私はもう、書けなくなってしまったけど。それでも、書けなくなったことをむしろ誇りに思うために、もっともっといいものを書こうと思う。
 
 



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