痛note往復書簡 一通目
内澤 崇仁さま
突然「誰やんお前」的人間から手紙を出され、大変狼狽されていることでしょう。同じく、私も自分の奇行に狼狽しております。
二人で歯をがちゃがちゃいわせながらおわおわするのも良いのですが、まあまず落ち着きましょうか、あなたも私も(久生十蘭)。
さ、ここで遠藤さん! 出番です!
どうした、さらなる奇行かと抜刀したかもしれません。お待ちください(真剣白刃取りをミスりましたのでマジでお待ちください)。ここで言う遠藤さんとは遠藤周作氏のことです。
いかがですか? 文豪の名を出すと何だか突然ここが知的な空間に思えてきませんか? 上記の久生十蘭もややそれを狙っております。「思えてきませんか?」と聞いておいて何ですが、この部分に関しての返信は不要です。
さて。遠藤周作氏は『十頁だけ読んでごらんなさい。十ページたって飽いたらこの本を捨てて下さって宜しい。』(新潮文庫)にこんなことを書いてくれていました。
手紙にはこんな素晴らしい効用があるのです。
ありがとう大先生。では、文豪の力を借りてこのまま推し進めていきますね。
内澤さん、はじめまして。川勢と申します。
デーリー東北さんに掲載されている『音は空から言葉は身から』vol.1、拝読しました。
内澤さんは、こんな言葉からはじめられていますね。
もももも申し訳ございません!
いままでエッセイについて何も考えずに読んできたましたよ、この愚昧は!
例えるなら、何の道具かもわからず電動断裁機を目隠ししながら触りはじめるくらいの無謀さがありますね。
ふう、あぶねえ、あぶねえ(※実際の電動断裁機は安全カバーがあり危険はありませんが目隠しはやめましょう)。
わかりました。
愛する内澤さんがそうおっしゃるのなら、私もエッセイについて学びましょう。
まずはピエール・グロードとジャン=フランソワ・ルエットによる『エッセイとは何か』を読んでみました。
そういえば作家で翻訳者のヴァレリー・ラルボーが『聖ヒエロニュムスの加護のもとに』の中で翻訳について
と記していた。もしかすると、エッセイとは、自分で(感情や感触などまだ言葉として成立していない)自分を(言葉として)翻訳する行為に近いのかもしれない。
ただ『エッセイとは何か』には、マックス・ベンゼによる「創造とアンガージュマン(社会参加、自己拘束。『哲学用語図鑑』プレジデント社)の、美学と倫理学のあいだにある境界線」や「光で照らし活気づけ」る論や、デヴィッド・ヒュームによるエッセイストは「会話の国におもむく知の国の大使」論などさまざまな見解が詰め込まれ、川勢の小さな脳にはキャパオーバーでした。
というわけで著者のピエールさん、ジャンさん、もう少し分かりやすく。お願いします。
はっはーん。
つまり要約すると……それは内澤さんがすでに『音は空から言葉は身から』に書かれていましたね。
長かった。内澤さんのこのお言葉に辿り着くためにどれだけ時間がかかったことか。
とはいえ、私が今回あげたのはフランスでのエッセイ論。せめて次回はちろっとでも日本でのエッセイについて少し話せたらな、と思っております。
では、今回は『World.Words.Lights.』のMVで締めくくるとしましょう。ちなみにこのMVに出てくるキャラクター、ロッカーくんが大好きなのでグッズの再販をお願いします。