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痛note往復書簡七通目

内澤 崇仁さま

 九月のくせにめっちゃ暑いやん。なんなん、アホなん。なんて悪態をついたからでしょうか。

 十月、寒いわ。

 シャツに短パンやと全身ぶっつぶつの鳥肌でお目覚めよ状態です。というわけで毛布を出しました川勢です。こんにちは。

 季節の変わり目、いかがお過ごしですか。内澤さんは現在ツアーの真っ最中ですね。androp主催のフェスもありましたし、疲労がたまっているのではないでしょうか。朝晩の寒暖差が激しいと体調を崩しやすくなってしまいますよね。風邪などの予防にはやはり免疫力が大事です。

 免疫力アップにはストレス発散(リラックスによる体温上昇)が効果あり、のようです。ストレス発散や日々の疲れからの解放には、ぼんやりと川や海を眺めながら釣りをするのも良いかもしれません。内澤さんは子供の頃よく釣りをされていたと音楽情報サイトSPICEのインタヴューで仰っていましたし、エッセイにも書かれていましたね。

イソガニは体が小さく素早いので、見つけてもすぐに岩陰などに隠れられてしまう。小さい頃は、岩をひっくり返して隠れていたカニを追い掛けて、逃げられていた。
 小学校高学年になると、餌を垂らして誘き寄せて捕まえる“技”を身に付けた。挟んだ餌を食べるまで待って、慌てず上に引き上げるのがこつだった。

『音は空から言葉は身から』vol.8(デーリー東北)

 すごっっ! 小学生ってこんな高度な釣りができるんや!?

 ちなみに私は高校生まで空想釣りに夢中でした。空想釣りとは公園(というか近所の草原)で針も糸もない木の棒を握りしめ、自分の好きなものを釣るという妄想行為です。主にパイの実やチュッパチャップスなど自分の好きなものばかり釣っていました。妄想ですが。

 あらまあ、とっても危ないわ(川勢の頭の中が)!

 完全に職質案件です。さらに、私は釣りのセンスがないらしく、釣り堀では一切釣れず、最後は餌を野球ボールのように素手で投げた記憶があります。竿を垂らしていたときは静寂に包まれていた池が、途端にわっしゃーと口を開けた魚だらけになった記憶があります。私より魚たちのほうがお利口さんでした。お魚、えらい!

 などと、私のやべえ話はさておき、内澤さんの好きな釣りについて今回は調べてみましょう。

 日本における娯楽としての釣りは、どうやら江戸時代からのようです。

遊びの釣りが発達したのは江戸時代になってから。それにはさまざまな要因がありますが、ひと言でいえば徳川幕府の成立によります。幕府のしくみの下に寺院勢力が抑え込まれ、仏教思想の影響力が衰えて殺生への抵抗感が薄れました。

ミツカン水の文化センターホームページより

江戸時代に釣りが発達したもう一つの重要な理由は、魚に警戒心を抱かせない半透明な釣り糸「テグス」の普及です。テグスの原料は中国に生息するテグスサンという蛾の幼虫。体内の絹糸腺(けんしせん)を抜き出し、酢に浸して引き伸ばし陰干しにしてつくります。川の水が濁っている中国では釣り糸としては利用されず、日本へ輸出する薬の梱包に使われていました。これに大阪の漁師が目を付け、江戸にも伝わったのです。

同上

 江戸時代は花火が庶民の楽しみとなった(そして禁止されるほどだった)ことは以前書きましたが、釣りが流行ったのも江戸時代でした。

 それにしても、現在のテグスはナイロンですが、江戸時代はテグスサンという蛾の絹糸腺を使用していたんですね。

 と、さらっと書きましたが頭の悪い私は

 まてまて、蛾の絹糸腺どんだけ長いねん! とビビりまくりググりました。するとテグスは鉤素、つまり道糸の先につけるものでした。
 
 ちなみに絹糸腺とは、チョウなどの鱗翅目、トビケラ目とも呼ばれる毛翅目、そしてハチ目と呼ばれることの多い膜翅目などがもつ分泌腺です。東京農工大学がテグスの作り方をネットにアップしていますが、写真付きなので苦手な場合はおすすめしません。ふーん、本当にできるんだなくらいでこの場の話だけで終わらせるのもありでしょう。

 さて話を釣りに戻しましょう。

 釣りに対する知識が私はまったくないので、まずは上記の江戸の釣りについて『江戸釣魚大全えどちょうぎょたいぜん』を読んでみました。

 この『江戸釣魚大全』は、江戸の釣りオタク津軽采女政兕まさたけによる『何羨録』について書かれた江戸時代における釣りについて書かれた書です。

じつはわが国にもこの『釣魚大全』にまさるとも劣らない、釣りの古典が存在する。
 その名を『何羨録』という。著者は津軽采女政兕──。寛文七年(一六六七)、江戸に生まれ、元禄から享保年間を経て、寛保三年(一七四三)に七十五歳で世を去った四千石の旗本である。生涯を通じて歴史の表舞台に顔を出すこともなく、またこれといった要職につくこともなく、ひっそりと一生を終えた人物だが、その反面、私生活はじつに波乱に富んでいた。

『江戸釣魚大全』(平凡社)長辻象平著

『釣魚大全』は釣り好きでなくとも知っている、有名な書ですね。釣りや魚に対する知識だけでなく、哺乳類や鳥類の知識も得られるのに小説仕立てになっており読みやすいところが多くの人に読まれている理由の一つかもしれません。
 
 そんな『釣魚大全』に比肩するという『何羨録』に道糸とテグスについて書かれた箇所があります。

緡綸品々有りといへども大方菅糸を用ふ。先は小鷹の足緒の細きを用ふ。

同上

この説明をみると、当時の釣糸には管糸がひろくつかわれていたらしい。蚕の繭を釜の中で煮て繰りとった、撚りのかかっていない平らな釜糸を数分の一の細さに分割したものが管糸だ。加工していない絹糸、つまり生糸の一種である。

同上

 なんと江戸時代の緡綸(道糸)は生糸だったんですね。現代のリールで巻いたら一発で切れそうですね。と、言いたいところでしたが、切れるというより伸びてしまうようです。

生糸の衝撃切断強度は、ほかの繊維にくらべて格段に強いが、水にぬれて力がかかった場合に伸びやすく、湿伸度は三〇パーセント前後といわれる。(…)これでは、鉤がしっかりと魚にかかりにくく、途中で魚を逃すバラシの原因になりやすい。

同上

 当時の道糸は技術を要する気がしますが、鉤素にはテグスを使用すること多くの人が釣りを楽しめるようになりました。

 しかしながらこのテグス、中国からの輸入に頼りきっていたようです。

当時の人にとってテグスは、その正体と性質が十分にわからない新素材であった。(…)その正体がわかるのは元禄から百年ほども後、文化の初年ごろのことである。(…)国内製造までにはさらに四、五十年を要し、国産テグスが出現したときには、すでに幕末もちかくなっていた。

同上

 随分と長い年月を輸入に頼っており、津軽采女ももちろん輸入品を使用していました。とはいえ、探究心が強い津軽さん。彼なりに「この糸なんやねん」とあれこれ予想はしていたようです。

津軽采女はテグスの素性について、当時いわれていたいくつかの説を紹介している。一つは『本朝食鑑』にもとづく植物由来。これはウリ科植物のつるの中をはしる芯であるとするものだ。第二の説は『大和本草』による昆虫由来説。さらに第三は『和漢三才図会』からひく海外渡来説。

同上

 鋭いな津軽さん! 昆虫だと気づけることがすごい。

 津軽采女は道糸、テグスだけでなく、竿や錘、そして「根」にも情熱を注ぎました。根とは、海底の岩などといった障害物によって魚が隠れやすく集まりやすい場所をさす釣り用語なんですね。知らんかったわー。

根の説まちまちなり。根の字もともと訓。そうじて魚は塊石の陰に宿す。魚のもとと云ふ心と云へり。四季ともに散らず、また網の恐れなき故に、なおもつて群れつどふか。

同上

 ああ、そうか。よくよく考えたら撈魚は趣味の釣りだけではなく漁業がある、というか漁業がメインですよね。江戸時代は漁法が大きく進化した時代でもありました。

江戸時代に入ると、漁法や船舶技術の向上もあり漁業は大規模化し、発達した。三浦浄心みうらじょうしんの『慶長見聞集けいちょうけんぶんしゅう』には、江戸の繁栄につれて西国さいごくの漁師が関東に押しかけ、「地獄網」という漁法で魚を捕りつくしてしまうことが述べられている。

『江戸の食文化』(小学館)原田信男=編

 この地獄網に関しては『江戸前魚食大全』にもう少し詳しく書いてあります。

ところで、地獄網というのは葛網(別名振網)だといわれている。底曳網の一種だが、大網にフリという木片を糸でたくさん吊り下げるのが特徴だ。『慶長見聞集』によれば、この木片は「魚の目に光る」という。フリを海中に引き回すと驚いた魚が浮かび上がって網の中心に集まってくるので、そこを一網打尽にする。タイやヒラメなどの底魚をねらう漁法だ。

『江戸前魚食大全』(草思社)冨岡一成著

 うわあ、このやり方だと江戸湾の魚が激減してしまいそうですね。ただ、一時的な減少はあったものの、漁業の荒廃にはいたらなかったそうです。その理由の一つに、幕府が漁業者の数を制限したことがあるようですね。何事も過剰な行為は良い結果を生まないものです。

 話を釣りに戻しましょう。江戸といえば男性社会ですが、釣りは女性にも人気があったようです。

初めに釣り文化を牽引したのは武士でした。その理由は園芸と同じく、暇だったから。(…)
やがて時代が下ると、武士だけではなく庶民も余暇の趣味として釣りを楽しむようになります。
女性にも人気で“分散の 蔵に内儀の 釣り道具”なんて川柳も。

『大江戸24時』(KADOKAWA)堀口茉純著

 内儀はおかみさんなので、釣り好きのおかみさんだったのでしょう。分散は倒産という意味で、もしかして釣りに熱中して仕事がおろそかになっていたとか。
 江戸には入場料をとり人数制限のあるタイプの釣り堀もあったらしく、お金を払ってでも釣りをしたい人たちが当時からいたということですね。

 江戸の人々、そして現代人にも愛される釣り。

 そして釣りを耽溺した津軽采女は『何羨録』に「仁者は静を、智者は水を楽しむ」と書いていました。

 そうそう、そういえばandropの『Water』は老子による

上善は水に治(似)たり。水は善く万物を利して静(争)わ有〈ず〉、衆〔人〕の悪む所に居り、故に道に幾し。居るには地を善しとし、心には潚(淵)きを善しとし、予(与)するには信あるを善しとし、正(政)には治まるを善しとし、事には能あるを善しとし、(動)くには時にかなうを善しとす。夫れ唯だ静(争)わず、故に尤无し。

『老子 全訳注』(講談社学術文庫)池田友久

 にインスパイアされた曲でしたね。すぐに釣りにはいけません(そもそも川勢は釣りができません)が、水の素晴らしいさを思いつつ今回はここらへんで。

 ではまた。


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