痛note往復書簡 四通目
内澤 崇仁さま
往復書簡、だがしかし返事は来ない。
それでも毎週書いているお前メンタル最強って思うかもしれませんが、ちょっと来週はどうかな? 無理かな? って感じです。ご安心ください。
いやさ、だって毎回調べるのが大変な内容ばかりなんですよ、『音は空から言葉は身から』(デーリー東北)って。
ただ、内澤さんのエッセイのおかげで、エッセイとは言葉の計量であり、『エリア随筆抄』であり、自由詩でもあるということを知りました。
それから、煎餅は中国から伝わった(何でも弘法大師が日本に持ち帰った説が散見されますが、煎餅の文字は正倉院文書にある、とのことでしたね)のですが、日本で独自の進化を遂げ、歌舞伎の『助六』にも出てくるなど(この話は前回書き損じていました。詳しくは歌舞伎公式総合サイトへ。ここの歌舞伎と食の話がとてもおもしろいのでまたいずれ詳しく書きます)日本人にとって馴染みのあるお菓子へとなっていったこと、などなど、まだ『音は空から言葉は身から』のvol.2までしかふれていないのに多くのことを学ばせてもらいました。
で、今回はこちら!
先日、八戸花火大会の様子がYouTubeにて配信されていましたね。andropの『Hikari』とともに夜空を光の世界へと変えた花火。とても美しかったです。
はい、ここで察しましょうね。来ますよ。
──花火とはなんだろう
てなことで! 今回は花火について調べてみました。
そうなんですよね。花火ってあれだけ暗闇を光で満たすのに、空に留まることは許されない。
なんて、儚い。
そんな花火ですが、いったいいつ頃生まれたのでしょうか。はじまりは中国のような気がしますが、そもそも花火とは何でしょう。
可燃性で爆発するものは数多くあり、花火を定義するのは極めて難しいというのです。なので、中国を花火のはじまりとするか、ギリシャをはじまりとするか、ここも判断が難しいようです(ただし中国起源説が多いようにみえます)。
まずはギリシャ説から。
一方中国では『淮南子』の編纂で有名な劉安(紀元前179〜前122)によって火薬が発明されたという説があります。
ただ、劉安と聞くと脳裡を過ぎる言葉が──。
とはいえ劉安説を否定するつもりはないので軽く流して、ささ、もう少し時代を進んでいくとしましょう。
先日逝去した松岡正剛氏による『情報の歴史21』をめくると、300年代は、のちにアヤソフィアが建てられるビザンツ帝国(東ローマ帝国)が誕生した頃だそうです。ちなみに日本はまだ古墳時代です。火薬どころか朝鮮半島からやっとかまどが伝わったといった状況でした。
やはり火薬起源は中国ということで良さそうですね。
では、日本にはどのようにして花火が伝わったのでしょうか。まずは花火より先に、火縄銃と火薬が伝えられます。
ここに出てくる火薬が花火のもとになるのです。
ただ、この硝石の産地は中国とインドであり、日本では産出できません。なので
輸入に頼るしかなかったのですが、鎖国により自由に輸入ができなくなります。そこで製造することになるのですが、当時はかなり苦戦したようです。
ええええ。古い家の土を舐めたの!? す、すごいな化学者根性。
当時は築四、五十年経った家の床下の土から硝石を採取するという方法だったようですが、これはつまり一度取ってしまうと次は五十年後にしか取れない事になります。なので、干草を使い人工的に硝石を製造する方法をあみだします。しかしこれは、炎天下で草を干してから切り刻み、魚のはらわたや古池の腐り水などを混ぜ、雨にあたらないようにしながら三年間かけてようやく完成する代物でした。ちなみにすごい悪臭らしいです。まあとにかく「ご苦労さまです」としか言いようがありません。
こんな昔の人たちの苦労の末、火薬は戦の必需品ではなく、光と音で楽しませてくれる芸術へと変わっていくのです。
ん? めちゃくちゃはしょったなお前。海の火やら丹薬やら火縄銃が出てきたが、結局花火とは何だったんだ、となるでしょう。いや、私がなったのです。
混乱してくるので『花火』にある
この定義をもとにすることにしましょう。
さ、すっきりしたところで。
まず花火の歴史といったら、「誰が日本ではじめて花火鑑賞をしたでしょうか?」クイズをしたくなるところです。
考える間を与えず即答えを言いますが、徳川家康! と答えたくなるところをぐっと堪えて、こちらの話を読んでいただきましょう。
ここで出てくる政宗公はもちろん伊達政宗。本書によると『天正日記』に記されており、史料的信用性も高い、とのこと。
その後、徳川家康も鑑賞することになるのですが、市民に浸透したのは慶安元年(一六四八)になってからのこと。この年の町触(町内に伝達された法令)に江戸市中において花火を禁止するとの内容があったそうです。禁止する、ということはその頃には町人が花火が浸透していたことを意味します。当時の町触に記載されたいた花火は、鼠火と流星(りうせい)だったそうです。
鼠花火って何と江戸時代からあったんですね。これには驚きでした。
では、そろそろ日本における花火大会の起源へと話を進めましょう。
この川開きでは川べりに食べ物屋や見せ物小屋などがあったそうです。
当時の花火は料亭の観客向けの余興だったようです。そのときの提灯に「玉」の字があり、玉屋がスポンサーだったか、花火の第一人者が玉屋であったかのどちらかではないか、と本書にあります。
玉屋といえば、私でさえも知っている花火が打ち上げられたときの掛け声、「た〜まや〜」の玉屋です。ちなみに、最初にあげた水神祭で花火をあげたのは鍵屋。当時、花火といえば玉屋か鍵屋であり、掛け声は「玉屋」「鍵屋」のどちらもあったようです。ただ、私が知っていたのは「玉屋」。ならば玉屋の方が長く続いたのだろうと思ったのですが
だそうです。ちなみに本書には「鍵屋」の掛け声も有名とあったので、私の知識がただただ乏しいだけでしたね。
さ、今回も長くなりましたね。失礼しました。
そうそう、先日の八戸花火大会でもそうでしたが、現在は花火と音楽がシンクロしたものがありますね。
一〇月に催されるTKYO ISLAND2024でも音楽に合わせて花火が打ち上げられるとか。花火についての知識がちびっとついたいまではandropの音楽と花火、よりいっそう楽しめそうです。
今回は締めはもちろん『Hanabi』で。花火のように儚く美しい歌声に今夜は浸るとしましょう。
では、また。