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痛note往復書簡 四通目

内澤 崇仁さま

 往復書簡、だがしかし返事は来ない。

 それでも毎週書いているお前メンタル最強って思うかもしれませんが、ちょっと来週はどうかな? 無理かな? って感じです。ご安心ください。

 いやさ、だって毎回調べるのが大変な内容ばかりなんですよ、『音は空から言葉は身から』(デーリー東北)って。

 ただ、内澤さんのエッセイのおかげで、エッセイとは言葉の計量であり、『エリア随筆抄』であり、自由詩でもあるということを知りました。

 それから、煎餅は中国から伝わった(何でも弘法大師が日本に持ち帰った説が散見されますが、煎餅の文字は正倉院文書にある、とのことでしたね)のですが、日本で独自の進化を遂げ、歌舞伎の『助六』にも出てくるなど(この話は前回書き損じていました。詳しくは歌舞伎公式総合サイトへ。ここの歌舞伎と食の話がとてもおもしろいのでまたいずれ詳しく書きます)日本人にとって馴染みのあるお菓子へとなっていったこと、などなど、まだ『音は空から言葉は身から』のvol.2までしかふれていないのに多くのことを学ばせてもらいました。

 で、今回はこちら!

そして、長かった梅雨もついに明け、夏に突入。この時期になると思い出すのは八戸花火大会と三社大祭だ。僕の人生において、この二つのイベントが夏の思い出と直結していると言っても過言ではない。

『音は空から言葉は身から』vol.3 内澤崇仁著

 先日、八戸花火大会の様子がYouTubeにて配信されていましたね。andropの『Hikari』とともに夜空を光の世界へと変えた花火。とても美しかったです。

 はい、ここで察しましょうね。来ますよ。

──花火とはなんだろう

 てなことで! 今回は花火について調べてみました。

花火は華麗に天空に花咲き、消えていく。この消耗の過程が美を構築するのであって、あとにはなにも残らない完全消耗の芸術である。

『花火──火の芸術』(岩波新書)小勝郷右著

 そうなんですよね。花火ってあれだけ暗闇を光で満たすのに、空に留まることは許されない。

 なんて、儚い。

 そんな花火ですが、いったいいつ頃生まれたのでしょうか。はじまりは中国のような気がしますが、そもそも花火とは何でしょう。

花火を含む火薬類は、たとえば「着火にともない爆発的に燃焼するもの」のように、感覚的に理解はされてはいるものの、科学的に定義するのはきわめて難しい。というのは、一般的には、爆発するものそそが火薬類であると思われがちではあるが、爆発するものすなわち爆発物質が数多く存在する中で、実際の火薬はほんの一握りに過ぎず、それらは実質的な観点から爆発の起こしやすさ(起こし難さ)と爆発の威力を考慮して経験的に定められたものだからである。したがって、花火はおろか、火薬類でさえも科学的に定義することはできないのが現実である。

『花火の事典』(東京堂出版)新井充[監修]

 可燃性で爆発するものは数多くあり、花火を定義するのは極めて難しいというのです。なので、中国を花火のはじまりとするか、ギリシャをはじまりとするか、ここも判断が難しいようです(ただし中国起源説が多いようにみえます)。

 まずはギリシャ説から。

ギリシャ人は紀元前4〜5世紀頃から硫黄、ピッチ、松樹(松炭)等火を伝える物に、麻屑等を混ぜた物を作り、これを「ギリシャ火」といって、火器として使用してきた。

同上

 一方中国では『淮南子』の編纂で有名な劉安(紀元前179〜前122)によって火薬が発明されたという説があります。

淮南王の劉安の『淮南子』の中に「消、流、炭を使って泥を金に、鉛を銀にしたものがいた」という記録が残っており、消は硝石、流は硫黄、炭は木炭と考えられる。

同上

 ただ、劉安と聞くと脳裡を過ぎる言葉が──。

およそ古くからある加工食品については、発明者の個人名など特定できないのが普通であるが、豆腐に関しては紀元前二世紀頃に淮南王劉安が考案したといわれている。(…)
大豆という堅い種子を柔らかな豆腐という食品に生まれ変わらせたのは、人々には信じ難い変化であった。まさに驚きの技術と思われたからこそ、方術好きの淮南王劉安が発明したと信じ込まれたのだろう。

『豆腐の文化史』(岩波新書)原田信男著

 とはいえ劉安説を否定するつもりはないので軽く流して、ささ、もう少し時代を進んでいくとしましょう。

晋の葛洪の『抱朴子』(317年刊)には、丹薬の製造法が丹薬炉の構造とともに詳しく書かれている。

『花火の事典』(東京堂出版)新井充[監修]

 先日逝去した松岡正剛氏による『情報の歴史21』をめくると、300年代は、のちにアヤソフィアが建てられるビザンツ帝国(東ローマ帝国)が誕生した頃だそうです。ちなみに日本はまだ古墳時代です。火薬どころか朝鮮半島からやっとかまどが伝わったといった状況でした。

六五〇年ころ、唐の偉大な錬丹術師、孫思邈は、同量の硫黄と硝石をいっしょにひいて混ぜあわせる製法を考えだした。そしてさらに、焦がしたサイチカの実をくわえた(これが木炭の役割をはたした)。孫思邈の製法は、火薬の最初の形態に非常に似通っていた。

『火薬の世界史』(角川ソフィア文庫)クライヴ・ポンティング著 伊藤綺訳

 やはり火薬起源は中国ということで良さそうですね。

 では、日本にはどのようにして花火が伝わったのでしょうか。まずは花火より先に、火縄銃と火薬が伝えられます。

戦国時代まっただ中の一五四三年九月二十三日、日が暮れようとしていた鹿児島県沖の種子島に一隻の大きなポルトガル船が漂着してきた。十四代島主・種子島時尭、わずか一六歳のときであった。(…)
 まさにこの世には無かった珍しい物を見た時堯は年少ではあったが、さすがに戦国時代の将であった。さっそく二千両という大金を投じてその二挺を買い入れるとともに、家臣に妙薬(火薬)の製法を研究させたのである。

『花火の科学』(東海大学出版)細谷 政夫・細谷 文夫著

 ここに出てくる火薬が花火のもとになるのです。

当時弾丸発射薬に使われた火薬は、いまでいう「黒色火薬」である。この火薬は、江戸時代から明治初期まで花火薬としても使われ、現在でも発射薬や着火剤などに多くの用途をもっている花火に無くてはならない火薬だが、成分は硝石(硝酸カリウム)と硫黄、木炭粉である。

同上

 ただ、この硝石の産地は中国とインドであり、日本では産出できません。なので
輸入に頼るしかなかったのですが、鎖国により自由に輸入ができなくなります。そこで製造することになるのですが、当時はかなり苦戦したようです。

明和三年(一七六六年)に青木安左衛門が残した『塩本記』は硝石製法の詳細を述べたものだが、次の書き出しで始まる。
「年数四、五拾年に成候古屋の床下の土を取りて味わえて見申候。(…)

同上

 ええええ。古い家の土を舐めたの!? す、すごいな化学者根性。

 当時は築四、五十年経った家の床下の土から硝石を採取するという方法だったようですが、これはつまり一度取ってしまうと次は五十年後にしか取れない事になります。なので、干草を使い人工的に硝石を製造する方法をあみだします。しかしこれは、炎天下で草を干してから切り刻み、魚のはらわたや古池の腐り水などを混ぜ、雨にあたらないようにしながら三年間かけてようやく完成する代物でした。ちなみにすごい悪臭らしいです。まあとにかく「ご苦労さまです」としか言いようがありません。

 こんな昔の人たちの苦労の末、火薬は戦の必需品ではなく、光と音で楽しませてくれる芸術へと変わっていくのです。

 ん? めちゃくちゃはしょったなお前。海の火やら丹薬やら火縄銃が出てきたが、結局花火とは何だったんだ、となるでしょう。いや、私がなったのです。

 混乱してくるので『花火』にある

花火……黒色火薬を筒につめ、または玉にしたもの。点火して破裂、燃焼させ、光・色・爆音などを楽しむ。

『花火』(法政大学出版局)福澤徹三著

 この定義をもとにすることにしましょう。

 さ、すっきりしたところで。

 まず花火の歴史といったら、「誰が日本ではじめて花火鑑賞をしたでしょうか?」クイズをしたくなるところです。

 考える間を与えず即答えを言いますが、徳川家康! と答えたくなるところをぐっと堪えて、こちらの話を読んでいただきましょう。

七月七日は雨だったが、夜になって、唐人(明国人)が三人参り花火を行った。その後、歌も歌った。翌八日、天気は晴れで、夜になって唐人が列席者に花火を配ったので、それを上げた。政宗公もなされて、一段と見事であった(…)。

同上

 ここで出てくる政宗公はもちろん伊達政宗。本書によると『天正日記』に記されており、史料的信用性も高い、とのこと。

 その後、徳川家康も鑑賞することになるのですが、市民に浸透したのは慶安元年(一六四八)になってからのこと。この年の町触(町内に伝達された法令)に江戸市中において花火を禁止するとの内容があったそうです。禁止する、ということはその頃には町人が花火が浸透していたことを意味します。当時の町触に記載されたいた花火は、鼠火と流星(りうせい)だったそうです。

鼠火は地面を這い回るものか、柳のように片側から噴き出すもの、流星は上空を飛翔するもので、これらは江戸時代の資料にたびたび姿を見せる。鼠は玩具花火として現代も健在である。

同上

 鼠花火って何と江戸時代からあったんですね。これには驚きでした。

 では、そろそろ日本における花火大会の起源へと話を進めましょう。

世にいう両国の川開きは江戸時代の享保十八年(一七三三)旧暦五月二十八日に行われたのが最初であるといわれる。その前年には全国的に凶作で百万人近い餓死者が出、さらに江戸市中では、コロリ病(悪疫)が大流行して多くの死者を出した。八代将軍吉宗は悪疫退散祈願と犠牲者の霊を慰めるために両国橋付近で水神祭を行った。同時に隅田川両岸の水茶屋が川施餓鬼かわせがきを催し、余興に花火を見せたのがことのおこりである。

『日本の花火のあゆみ』(リーブル)武藤輝彦著

 この川開きでは川べりに食べ物屋や見せ物小屋などがあったそうです。

隅田川の下流の三俣にほど近い新大橋の少し先に、一八世紀後半に中洲ができた。大伝馬町の草創名主の馬込勘解由まごめかげゆは冥加金上納を条件にその土地を開発したいと幕府に願い出て認められ、安永元年(一七七二)四月に竣工した。この埋め立て地は料亭が建ち並ぶ歓楽街、中洲新地となった。中洲新地は両国橋と並んで花火の名所となり、数点の浮世絵が知られている。

『花火』(法政大学出版局)福澤徹三著

 当時の花火は料亭の観客向けの余興だったようです。そのときの提灯に「玉」の字があり、玉屋がスポンサーだったか、花火の第一人者が玉屋であったかのどちらかではないか、と本書にあります。

 玉屋といえば、私でさえも知っている花火が打ち上げられたときの掛け声、「た〜まや〜」の玉屋です。ちなみに、最初にあげた水神祭で花火をあげたのは鍵屋。当時、花火といえば玉屋か鍵屋であり、掛け声は「玉屋」「鍵屋」のどちらもあったようです。ただ、私が知っていたのは「玉屋」。ならば玉屋の方が長く続いたのだろうと思ったのですが

玉屋は天保14年(1843)、不幸な出火で一代限りで断絶するが、鍵屋は、戦前まで続いた唯一の江戸の花火屋だった。

『日本列島花火旅』(小学館)文/出井邦子 写真/馬場 隆

 だそうです。ちなみに本書には「鍵屋」の掛け声も有名とあったので、私の知識がただただ乏しいだけでしたね。

 さ、今回も長くなりましたね。失礼しました。

 そうそう、先日の八戸花火大会でもそうでしたが、現在は花火と音楽がシンクロしたものがありますね。

コンピュータの性能が向上した現在では汎用ソフトが普及し、これに伴い音楽と花火の点火を管理制御するソフトが次々と開発された。まず、使いたい音楽をコンピュータで作成するところから始まり、どのタイミングで点火を行うかを設定できる。その点火時刻の精度は0.1秒以下である。

『花火の事典』(東京堂出版)新井充[監修]

 一〇月に催されるTKYO ISLAND2024でも音楽に合わせて花火が打ち上げられるとか。花火についての知識がちびっとついたいまではandropの音楽と花火、よりいっそう楽しめそうです。

 今回は締めはもちろん『Hanabi』で。花火のように儚く美しい歌声に今夜は浸るとしましょう。

 では、また。


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