正しい単語を使う重要性・『治験』『論文』
「治験」という単語に、どのようなイメージを持っていますか?
Oxford Languagesでは、「治験」の定義を以下のように定めています。
私の場合、まず第一に「治験バイト(治験アルバイト)」という単語があるように、薬の効果がまだはっきりしないものに対して、謝礼や協力金などの金銭のやり取りが絡む臨床試験をイメージします。
もし、私と同じようなイメージを「治験」という単語に持っているのだとしたら、「新型コロナワクチンの治験は終わっていない!」、「現在も治験は続いている!」という言説に、ギョッとすることでしょう。
ヒトを対象とした薬の試験を一般に「臨床試験」と呼び、国(厚生労働省)の承認を得るため臨床試験を、特に「治験」と呼びます。したがって、薬として承認を得るまでの段階においては、「臨床試験=治験」となります。
そして、承認後も、有効性の持続性などを確認するために「臨床試験」は継続されます。これを「治験」と呼んでしまうと、「新型コロナウイルスワクチンの治験はまだ続いている!」という言説が生まれ、ワクチンに対して「まだ効果がはっきりしていない」などというイメージが強く付き纏うことになります。
したがって、ワクチンに関わる「臨床試験」の現状について正しく言えば、「新型コロナワクチンは、臨床試験(第Ⅲ相試験)で、有効性と安全性に関して厳格な評価が行われた後に承認されています。その上で、効果の持続性等を確認するために、臨床試験の一部が継続されています。」という、まさに厚生労働省の回答の通りになります。
さらに言えば、全ての人が正しい意味をイメージできる単語は、第I相〜第IV相試験です。議論するならば、この単語を使うべきでしょう。
今日、Twitterで「論説は論文か?」という議論を見かけました。
Oxford Languagesでは、「論説」の定義を以下のように定めています。
私の場合、論説には「自分の経験に基づく解釈が主体であるもの」というイメージを持っています。
別のウェブサイトでは、「論説」について以下のように解説しています。
今回、議論の中心となっている福島雅典京都大学名誉教授らの論説の内容について詳しく触れませんが、先日の勉強会での福島名誉教授の様子などを総合して考えると、これは「論説」と呼ぶべきもののように思います。
例えば、福島名誉教授らの論説の考察には、以下の記述があります。
診断する医師が、ワクチン接種日と死亡日が離れれば離れる程、ワクチンと死亡の因果関係に対する意識が薄れる可能性は考えられないのでしょうか?
Fig. 2で省略された接種後31日目以降の死亡例数(=報告数)は、ほとんど「0」です。診断する医師の「報告バイアス」も考慮する必要があると思います。これは、「無作為に報告したとは考えにくい」という言葉で否定できるものではないと思います。
確かに、「論説」も学術論文(論文)の一種であることに間違いはありません。それは、福島名誉教授らの論説が掲載された『臨床評価』という雑誌の投稿規定を見ても明らかでしょう。
ただ、やはり「論説」には「自分の経験に基づく解釈が主体であるもの」というイメージが付き纏います。科学的な議論においては「国際学術雑誌に掲載された査読付きの原著論文」が何より重要です。これが「自分の経験に基づく解釈は最小限に留めたもの」の最たるものであることを考えると、今回の議論の中で「論説は論文の一種」として、福島名誉教授らの論説を「論文」という単語で押し通そうとすることに強い違和感を覚えます。
では、どうしたら良かったのでしょう?
それは当然、初めから「論説」という正しい単語を使えば良かったのです。
福島名誉教授らも、だから「きちんと「論説」という形で発表したのに。」と思っているかもしれませんね。
以上。
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