陳舜臣生誕100年に寄せて 第1回 小説『三色の家』の街
川瀬流水です。今年の2月18日は、神戸ゆかりの作家、陳舜臣(1924.2.18~2015.1.21)の生誕100年にあたります。
私は、広島県南西部の海辺の町、呉(くれ)市の生まれですが、神戸には、就職と同時に移り住みました。「海にも山にも近い。これが、神戸のキャッチフレーズ」と陳舜臣は述べていますが、海に向かって開かれた雰囲気はよく似ています。
生まれ故郷に似た心地よい街の暮らしに包まれながら、読み親しんだのが陳舜臣でした。今でも最も好きな作家の一人です。
私は、災害多発国の日本で暮らす様々な人々の姿、とくに避災招福を願う風俗習慣に興味があり、noteでも、こうした分野を中心に取り上げさせてもらっています。
日本に暮らす華僑の人々もまた、様々な災いに遭遇してきたことと思います。陳舜臣は、そうした華僑の一人として、日本を客観的な視点で捉えながら、一方で、優しく温かい眼差しをもって接してくれていたように感じます。
この2つの視点を併せ持つことが陳舜臣の魅力であり、国の内外を問わず、異なるバックグランドをもつ人々と接するときの、私の変わらぬスタンスにさせてもらっています。
今回、神戸観光局のプラットフォーム『神戸のとびら』提供の「陳舜臣生誕100年ミステリーツアー」(主催:関西芸術文化共創)に参加しましたので、ツアーに沿って街の姿をみていきたいと思います。
ミステリーツアーは、陳舜臣が1962(昭和37)年に発表した推理小説『三色の家』が下敷きになっています。なお『三色の家』は、残念ながら講談社版・扶桑社版ともに絶版となっているので、ご注意ください。
2月21日(水)、陳舜臣の生家があった阪神西元町駅附近をスタート、小説の舞台となった「三色の家」や主人公の陶展文にちなむ「東南ビル」の想定場所を確認、最後に北京料理の老舗「第一樓」(だいいちろう)で昼食をいただきました。
陳舜臣の生家は、現存しませんが、上図の左上、阪神西元町駅附近、現在神戸博愛病院が建っている辺りにあったとのことでした。隣に「白鶴の酒蔵」があったとのことで、貴重な当時の写真を見せていただきました。
神戸では、開港最初から外国人と日本人の雑居が認められていましたが、華僑の人々もまた、日本人と混住しながら、地域に溶け込んでいったことが推察されます。
元町通は、小説のなかで「きらびやかな元町商店街」と表現されています。旧西国街道の一部であり、神戸を東西に横断するメインストリートです。通りの両側に設置されている「鈴蘭灯」は、現在もアーケードを彩るシンボル的存在であり、開港当時以来の老舗が残っています。
栄町(さかえまち)通は、かつて「東洋のウォール街」と呼ばれた金融の街でした。小説には「栄町の電車道に達すると(中略)赤煉瓦の銀行や瀟洒な商事会社、船会社、新聞社の建物が並ぶ」と表現されています。
小説には「栄町の電車道と海岸通のちょうど中間に、一筋の狭からぬ道路がある。これが『内(うち)海岸』なのだ。道の両がわには、輸出用海陸産物の問屋がずらりとならんでいる。土地の住民は、ここを『海岸村』と呼ぶ」とあります。内海岸は、現在の乙仲(おつなか)通にあたります。
これら問屋の扱う商品は「海産物、椎茸、寒天、罐詰、青果、すべて貿易品である」と表現されており、主に日本人が各産地から調達していました。
一方、海岸通や旧外国人居留地には、華僑商館が建ち並んでいました。小説の舞台となった「三色の家」は、海岸通に面して建つ華僑商館です。
それは、陳舜臣が少年時代を過ごした実家の華僑商館があった場所で、現在のケンミン食品本社ビルを少し海側にはみ出した辺りが想定される、との説明がありました。
神戸のソウルフード「焼ビーフン」でおなじみのケンミン食品の創業者は、台湾出身の「高村健民」で、焼ビーフンは、世界初の味付ビーフンとして、同じ台湾出身の安藤百福が創業した日清食品のチキンラーメンの2年後、1960(昭和35)年に発売開始されています。
本社ビル直営の「健民ダイニング」で、冬季限定メニュー「蒸し鶏の酸辣湯ビーフン」をいただきました。深みのあるピリ辛味で、細麺のビーフンが蒸し鶏とよくからみ、とても美味しかったです。
小説には「日本の海陸産物の輸出は、ほとんど華商の手を通じて行われた」とあり、海岸村をベースに、日本人からなる問屋と華商が商談を繰り広げていたことが分かります。
そして「おそらくこの海岸村ほど中国人と日本人が仲好く、親密に交わっている場所はほかにはないであろう」と表現されています。こうした交流の積み重ねが、現在の神戸という街の下地になっていると感じています。
今回は、『三色の家」をベースに、神戸の街をみてきました。次回は、陳舜臣の神戸に寄せた思いについて、掘り下げてみたいと思います。