一言で伝えきれない気持ちを表現できる方言
当たり前のように使っていた言葉が方言だとわかった時って驚く。同時に少し恥ずかしい。
私は結婚するまでの多くを関西で過ごしたので、無意識なまま身についている関西弁がある。その言葉の中にがさつさを感じると、自分の中のがさつさを見透かされたみたいで、照れ笑いすることでしかやり過ごせない。
時々ここに書いてきたけど、父方の祖父は岐阜、祖母は岡山。母方の祖父は新潟や北海道、祖母は岡山。両親は西宮や宝塚で育った。
母方の祖父が、地方の言葉を嫌うので、同居していた家の中で岡山弁や関西弁が飛び交うことはなかった。それでも、祖母も母も無意識に岡山弁が混じっているし、母だけの造語がある。
ニュージャージーで過ごした期間も、周りの日本人の家庭が関東からの人が多く、なまりがなかった。
私は後天的に関西弁を身につけたから、時々自分の言葉がわからなくなる。
この前、夫に「どうしたの。うわばれた顔して」と言ったら「なにそれ」と言われた。
最近手軽に調べられるから、「うわばれる」と検索したら、トップに
と出てきた。
えっ。
うわばれるではなくて、うばわれるだった。
調べども調べども、「うばわれる」以外に出てこない。
うわばれるなんて言葉はなかったのだ!
ふと気づいた。母は「浮腫」を「うわ」「ばれ」と読んだことがあって、そのまま面白がって使っているのではないか(その後、母に聞いてみたけど真相がわからない)。
いずれにしろ、むくんだ状態が「うわばれる」は、私の中でしっくりきて浸透していた。だから自然に使ってしまう。
そして私も造語がある。息子にあまりに自然に伝わってしまって、息子が外でこっぱずかしい思いをしているのではと想像してしまう。でも仲間だけで通じる言葉って学生時代の頃に作ったり、夫婦間や親子間であるものだよね。そういうのを使って、うひゃうひゃ笑っているのもちょっと下らなくて楽しいんだよ。
地方の言葉は、他で使うと照れ臭いけど、好きなのだ。
札幌育ちの夫と、宝塚育ちの私で、色々比べ、今住む東北南部の言葉を楽しむ。
ここnoteで知り合った方に土地の言葉を教えてもらう機会もある。noteならではの温かくありがたい交流よね。
たとえば佐渡では人と話していて、いやな気持ちがした時、「いやならさらおけ」という言い方があるそうだ。「いやなら見ないでけっこうです」「いやなら来ないで」という意味だそうだ。
「いやなら」がセットで、いやな気持ちがした時だけ「さらおけ」という言語が発生するみたい。少し強い言葉だから、なかなか口には出さないけど、心の中でそう言い聞かせたりするそうだ。
その言葉とその説明を聞いた時に、そうか誰しもなんとなく嫌な気持ちがしてしまうことってあるんだと、励まされた。そしてそんな時、いやなものやいやな人に執着するのでなく、自分の世界を守り、自分の道を歩んでいく大事な考え方なんじゃないかなって。
言葉には、使い方や意味がわかっただけでそうやって自分を励ましたり慰めたりする力だってあるんだ。特に方言は。
他に、母の教えてくれた言葉に「よだつ」がある。岡山の言葉みたいだから、祖母から自然に伝わったのかもしれない。
人と会う約束をしているけど、やっぱり行く気持ちになれない時に言われた。
「なんかよだつんでしょ」
調べれば、億劫だとか気が進まないと書いてあるけど、もう少し胸のもやもやした、ざわざわした感じ。何となくイヤになっちゃったから行く気がしないんだよなー気が進まないなーの気持ちを言い表しているようで、そのシチュエーションで使うのがしっくりくる。
これも母に言われ、そういう表現があると知ることで、他の人も標準語では言い表しつくせない感情があるのだと何だかホッとする。こんな気持ちになってしまうのは私だけじゃないんだなって。
地方の言葉には、その感情に寄りそうものが多い気がする。
自分の中の言葉にできないような思いを表現する言葉。その一言でたくさんの思いをこめた言葉。言葉の響きという意味ではなく、その人に寄り添おうとする意味での、優しい言葉があるのよね。