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何を大切に思うかを見つめ直した1月

 「1月は長く感じるわあ」母が言う。
 
 1月は居ぬ(る)。2月は逃げる。3月は去る。
 その言葉と説明を聞いたのは、小学生の時の全国朝礼でだった。
 確かにすぐ過ぎていっちゃう気がする。うまいこと言うなあ。
 言葉の中にイヌとサルもいるし。
 とか、ぼんやり思った。かな。それ言ったの、夫な気もする。

 でも今回の1月は長く感じるのだ。私も母とまったく同じ気持ち。なんなのだろうね。

 体調がずうぅーっと低空飛行だった。それに伴い気持ちもずうーーっと。
 年末年始でたっぷり休んでいるはずなのに、自分の心身の調子の出なさに困惑した。

 先週後半あたりからエンジンがようやくかかり始めた。大きくブルンブルンとはいかないけど、ぷるぷると弱々しく心の中で音をきしませ始めている。

 この前は散歩したら、朝の気温が低かったらしく、また葉や枝に霜がびっしりついていた。
 裸の枝なのに、白い葉っぱがたくさんついているみたい。
 春になったら白い花を咲かせてね。

ユキヤナギには雪がどっさりついていたり、
こんなふうに霜がびっしりついていたり
花が待ち遠しい(雪かき疲れた)

 別の日。
 ふと自分より先に散歩した跡を見つける。一人と一匹。可愛いな。

喜んで散歩に出たのかな。イヤイヤだったかな
1人と1匹が仲良く並んでいる

 今月はニュースに気持ちが振り回されてしまい、勝手に疲れてしまった。何かしら自分にとって強い衝撃があると、いつも2,3日はそれで頭がいっぱいになってしまう。1月は断続的にあったのと、自分からその中にもぐりこんでしまった。気持ちが内側にこもるの、良くないなあ。今はネットで自分から情報を取りに行くわけで、どんどん同じ情報の深みのようなものに入り込んでいく怖さがある。そんなつもりないのに。
 イヤなニュースをつい読みに行って、自分の中の怒りを再確認してしまう必要なんてないのだよね。

 声を上げなければならないことや、うやむやにしてはいけないことはある。ここまでしないと動かない社会だという意識もある。だけどただ怒りや憎しみを誰もが見える場所にぶつけられていることを認識しておかなければね。単純に物理的な量と、その激しさは自分に必要なものだろうか。私は届くべき相手ではないのだし。

 声を上げなければいけないことと、わざわざ読んで感情に支配されてしまうこと、頭をそれでいっぱいにすることはちがうよ。
 自分に言い聞かせて、ちゃんとネットと距離を置こうと、今回はかなりしっかり心を決めていく。


 自分の心にある空間を何に使うかってすごく大事だ。生活を左右する。
 何かに接して感じる喜怒哀楽以外に、家族や友人や親しい人が感じた喜怒哀楽がある。そこに境界線が引けていないと、気持ちを取りこみすぎていつの間にかそれを自分が背負ってしまう。生活に影響を及ぼしてしまう。依存関係ができあがる。期待したように誰かが動かないと、怒りや悲しみがわいてくる。
 誰かを信じてゆだねる時だって必要。
 親しい間柄でさえ線引きは必要なのだから、ましてやネットで知るニュースに感情を支配されるなんて、自分の気持ちに線引きができていない気がするんだよ。気質がら、そんな部分がよけいにあるから気をつけなくちゃ。

 日々読むnoteで、様々な人たちがいる。当たり前だけど、アナタと私のnoteのページはちがう。
 タイムラインに上がってくる記事をざっと目にしただけで、様々にその日を暮らしている。その時喜びに満ちている人。希望にあふれている人。やる気に満ちている人。悲しみに満ちている人。どうにか頑張っている人。調子の出ない人。面白くて笑っちゃう人。可愛い人。可愛い家族。
 そして、しばらく来ない人も。
 私たちの生活は様々で、その日その時に抱いている気持ちも様々。自分が身近に感じる人たちや交わす会話、目に映る物を大事にしたいな。

 振り返ってみてわかった。1月はしんどかったんだな。気力がわいてこなかった。それでも日々どうにかこなしていたからヨシとしよう。今月もがんばったぞ私。

 少しずつ動き始めている。ゆっくりだけど。この期間、自分を見つめ直したわけだし。何をしたいか。自分の中でどんな気持ちや考えを大事にすれば良いのか。どう暮らしたいか。
 きっと2月が終わる頃に振り返ると「ひー! ほんとにぃ?!」ってそのはやさに驚くよ。
 たぶんだけど、来月は報告したいささいな出来事がたくさんあると思う。


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かわせみ かせみ
読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。

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