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みんなのこと、好きなのに!~hspで誤解を与えている気がする~


 先日、kokokakuさんの努力により、本を制作出版するためのクラウドファンディング、大成功を遂げました。目標を上回る大きな成果を挙げて、すごいことです。hspを広めようという熱意、子供を思う気持ちを行動で表され、今後あらゆるものが動いていくワクワク感があります。


 さて度々、こうやってどうしても話題にしなければならなくなった。私自身がhspだと打ち明けてから、ますます自分にとって大きな部分となっている。でも私はkokokakuさんの文章を読むまで、苦しんでいる子供たちがいることに気付かなかった。自分が子供の頃、hsp(子供の場合はhsc)という概念はなかったため、「それで」苦しんでいるとは思っていなかったのだ。
 それに5人に1人というのは、多数派ではないけれど、割と多い。そんなに特別視することでもないと、自分で気づいてからもそのように思っていた。

 だけど、私のように8~9割当てはまるような人間でも、重さや軽さがあることを知った。それこそ7割当てはまればhspですよ、というチェック項目の場合、7割でも私より暮らしづらい人がいることもkokokakuさんの活動により知ることができた。私のそういう部分が子供の頃に強く出ていたら、もっとしんどかったかもしれない。もしそういう子が自分の身近にいたら、それはアナタの宝だと知らせたい。

 体質だってそういうところがある。メニエールだって私の意志でどうにかできるものではない。最近話題にされているところだと、パニック発作を持っている人たちも。あれを性格的に分ける人たちがいまだにいるのがどうにも歯がゆい。性格が明るく強くて、元気で、友達が多くて社交的だからって、ならないわけではない。hspも。性格的なもの、強さや弱さとは何ら関係ない。精神論で何とかなるなら、とっくに変わっているだろう。こういうことを話題にする時に、特に子供たちに対しては理解があってほしいと思う。子供でこういうことに苦しんでいる時、それを「変えよう」と何とか奮闘努力をしないでほしい。どうか寄り添いながら、その子の成長を見守ってほしいなあと思う。

 で、大人になった私の話だ。
 大人どころかもう40代も後半の私。

 最近、自分の特性を自覚することが増えている。ここでこの話を載せたからということもあるだろう。それに関して後悔はない。考えが深くなり、さらに進んだという実感はある。

 でもちょっとこの特性、良くも悪くもやはり繊細で面倒くさいなと思うところもあるのだ。友人で同じようなタイプ、同じような程度の人がいて、彼女のことを見ていると、なにか説明のしようがない強烈な親近感と共に、「可愛いじゃないか」と笑ってしまうことがあるのだけど、自分のこととなると、どうにも面倒くさい。

 私の問題。一つは、無邪気過ぎるところ。チェック項目としては「良い」人、のような記述だったと思うが、多分これは良いように書いてくれていて、大人になった私にとったら、実際はアホみたいに無邪気、無垢、そして真面目なのだ。子供はこれで充分可愛い。子供らしくてそれで良い。だけど大人でこれは問題だ。何が問題って、無邪気な自分にハタと気づいて、周りを見まわし、傷つく。どうもこんな風なのは私だけのようだ、とか、どうも皆は客観視できている、とか。相手の懐にワッと飛び込んでから気が付く。これ、誰も全然悪くないから、「本当に勝手に自分に対して傷つくんです。どうにかならないものか。

 真面目過ぎるところも。詳細に自分のその時の気持ちを(無邪気に)説明し過ぎて、言い訳じみてしまう。さらにその後、ケースバイケースだから矛盾する瞬間も出てきて、それもそれで説明しようとするとクドくなってしまい、うっとうしがられる。だから放置することもある。今度はそれで不信感を持たれる。結局それって考え過ぎ。考え過ぎも、hspで指摘されている点で、思考する自分は好きなのだけど、ここは考え過ぎなくて良いのにとさすがに自分で思う。

 もう一つは、賑やかな人たちが集まるところが極端に苦手なところ。人が多い場所は好きなんです。ずっと都会育ちだった。夫も都会っ子だから、多分年取ったら都会に暮らすんだろうと二人で話している。だから人混みも平気。なのにワイワイ賑やかな雰囲気が苦手なんです。これ、すごく悲しい。何故なら、私の気に入った人たちはワイワイした雰囲気が好きなタイプも結構いるから。そういった個人個人を苦手にはならない。なれない。それとこれとは別。でもその輪に入れない。何故なら……hspだから。すごく疲れてしまう。圧倒されてストレスで疲れてくるので、イヤだと思う気持ちがたまってくる。その言葉が普通のやり取りだとわかっているのに、流すことができず、気持ちが乱されて、いつの間にか疲れてクタクタになっている。

 ここは変えられるところではないけど、「自分で」悲しいところなのだ。挑戦しては、ああダメだったと、こんな歳になった今でも思い知らされる。

 これ、ネットの上でもそうなんです。好きな人やファンはたくさんいるのだけど、その人たちやそれに関わる人たちの賑やかなやり取りが、疲れてしまう。多分一人一人の思いを感じてしまうからだと思う。ちょっとした一言でも、文章でも。さーっと読み流すことができない。だから時々のぞいて読むだけ。これを無理する必要はないとは思うけど、世界はなかなか広がらない。それでいて好奇心は強いからついのぞいてしまう。入り込めるかなと思うのにダメだと自分にガッカリしてしまう。繰り返す。自分を受け入れているつもりなのに、好奇心とのギャップで毎回しんどくなってそれが悲しい。


 hspで良いところは、人の気持ちに寄り添えるところや面白いことにも敏感で日々楽しいところでもあるのだけど、やっぱりそれ故に克服できないところでしんどさを抱えている時は、ちょっと落ち込むし、周りの人たちに誤解されているだろうなあと悲しい。

 この気持ちを落ち着かせるためには、もっと自分を理解することだろう。そういう場所にあえて身を置かずに日々楽しむ方法を見つけ出したい。心地よく暮らせたらと思う。そして周り、特に好きな人たちに誤解を与えたくない。とりあえず誤解を与えたくない相手には、クドくても説明して気持ちを伝えるようにしている。それがクドいと思われて、離れられてしまうんじゃないかと不安になってしまうのだけど。難しい。難しく考えない方が良いことと思いつつ。まだ模索中。


#hsp #人との関わり方 #ネットの世界  

読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。