友達から恋愛や結婚になるかは、当たり前だけど双方を知りたい気持ち ~「500日のサマー」~
これちょっと話題になったんだよ。好きな映画に挙げている人もけっこういるよ。
ネットで配信されている映画のタイトルをざーっと見ながら夫が言う。
ふーん。恋愛映画かな。
「ふーん。恋愛映画かな」。じゃないわよ! その時の私に強く言いたい。
なによこれ、もっと話題になっても良いんじゃないの。私が知らなかっただけ? めっちゃ面白いやんか。
※ネタバレたくさんあります!
途中で「これ『モテキ』だ!」と二人でツッコミ入れた。恋が一段階進んで、すれ違う街の人たちでさえ祝福してくれているような気分になる。周りの人たちと踊り出すシーン。
そう言えば、『モテキ』も、女性の心理がつかめない感じに描かれているよね。
でも元々、久保ミツロウ先生の漫画。女性があんな視点でストーリーを描けるんだーと驚いた。つかみどころのない女心は難しく見えてしまう。でも少しわかる。自分の気持ちによる経験、周りの友達などの話と照らし合わせられる部分がある。
それをドラマ化し、さらに少し違う形で映画化してある。大根仁監督の映画はスピード感や見せ方が楽しくて好き。
他にもちょっと『ラ・ラ・ランド』を思い出す。季節によって章が変わって、その季節がストーリーの象徴となる部分だったり、恋と結婚との違いと考えさせられたり。
映像の見せ方も独特だった。絵が挟みこまれてきて、その絵の明るさや暗さ、動きがあるのは、トムの気持ちの象徴だろう。
さらに昔懐かしい映画『卒業』のシーンを見せてくれる。ダスティン・ホフマンが、花嫁を奪った後。サマーがあの映画を観てめっちゃ泣いていた。
一見ただの恋愛映画にも受け取れるからクセ者だ! 観方によっちゃ充分変わった映画だ。日にちがあっちこっち飛ぶし、妄想シーンや回想シーンが挟み込まれ、ちょっと芸術を感じ、ちょっとオタクっぽい。ただの単純なストーリーだけではない。
そんなに複雑でもないんだけど、女の子に夢中になる男の子の心理が上手に描かれている。
そして女の子がどう見えているか。女の子はきっとこう思っているのかも。そう思っているんじゃないかも。それにじわじわ気づかされる。相手側の心理も何となく理解できちゃう。
完全に男の子の側についてしまうと、女の子の態度とか言葉に苛立つかもしれない。なによ男の子を翻弄しちゃってさ。って思っちゃうかもしれない。でもよく見てみると。よく考えてみると。
自分がこの子の立場だったら、どうかしらって。
勝手にストーリー作り上げられて、好きなミュージシャン一人が同じだっただけですごく熱を入れられて。
私も夫と、最初に「合うかも」って思ったのは、好きなミュージシャンが一緒だったからだ。互いに「おや」と気持ちが引っかかった。伝わる魂とか人間の本質とかが、その独特な歌詞以上に大きくて、多分互いに「あの良さをわかってくれるのか」って驚きは確かにあった。でももっと知るにつれ。一緒に絵を観て、ミュージカルを観て。そういったものを「楽しみたい」「知りたい」「本質は何なのかを面白がりたい」と思う気持ちが似ているんだとわかった。
さらには、「その人が、面白いものだと関心を持つ気持ちを理解してみたい」。
本をたくさん貸してくれた。夫は全部読んだわけじゃない、これはよくわからない、とも言いつつ、私の感性で読んでみたら何か感じるところはあるんじゃない? と。
きっとそういうところよね。
この二人は、好きなミュージシャン一人が一致した。彼女は「その人好き」「その曲好き」って軽く言っただけだった。
トムは運命的なものを感じた。
当たり前だけど、一方だけじゃダメだ。
よくよく過去を振り返ってみると、声をかけたのも、手をつないだのも、キスしたのも、「傷つけたみたい、ごめんね」と謝ったのも全部彼女からだ。
彼女が彼をもてあそんだのではなくて、彼を「どうかな、ときめかないかな」「もっとこの人を知りたい」「好きになりたいな」って思っていたんじゃないだろうか。喋っていると楽しいから、もっと自分の心が動かないかなって希望を持っていたんじゃないだろうか。
ホラ若い頃って、気が合う異性を、恋愛対象にならないかって期待しちゃわないかしら。私は期待してもしなくても、気が合うだけで全然友達止まりだわって人、けっこういたなあ。相手にそう思われていたんだと知って、ガッカリすることも多々あったし。自分からだと段々そういう割り切りがわかるようになっていく。
サマーも、心がそれ以上動かないから「やっぱり友達なのよ」って一貫している。じゃあ恋愛ごっこは傷つけるよーとトムに同情するけれど、それは多分一人ひとり行動の基準も違うし、私にはわからなくて当たり前なんだろう。この子はこういう風に行動するんだなって。
結局、トムはサマーに対して自分からの言動はなかった。ただ「僕にこんな気持ちにさせておいて」って怒っちゃう。思わせぶりな、カップルみたいなこともたくさんしておいて、って気持ちはすごくわかる! だけど、好きになるって受け身じゃなくて自分から行動起こしちゃうんだよね、本当は。
結局、サマーが本を読んでいても、トムはそれほど関心がないし、美術館でもそうだった。意味不明な芸術作品、その「何か」を何とか言語化しようとするサマーは滑稽だけど、退屈ではなさそうだったよ。
映画を観て泣くサマーを「ただの映画じゃないか」って言うんじゃなく、泣いたんだから「この子は心動かされたんだなあ」って思えなかったんだよな。「映画やーん」は私も夫に言われたことがあるけど、私があまりにドキドキ怖がったり「あの人死んだらいやだ。しばらく落ち込む」とか観る前から心配したりするからだ。泣いた後の「ただの映画じゃないか」とはニュアンスが違うんだよなあ。自分の好きなことだけじゃなく、相手の好きなことにも関心持ちたいよ。
過去を振り返るようにできているので、そういう流れを観ながら、ふと「この二人、好きな音楽がほんの少し似ていただけなんじゃない?」って観ている側も段々気づいていく。
喋っていて楽しいだけの相手は、友達で充分。
彼女の部屋に、ルネ・マグリットの絵画「人の子」の帽子とリンゴを思い起こさせるオブジェみたいのがある。あの絵の意味は「私たちが見ているものは一方で他のことを隠している」らしい。
トムは触ってみるのに、それについての言及はない。きっとよく知らないし、解釈も知らないし、関心もないのだろう。
もうまさにこの映画自体がそう。最初は男の子の目線で私たちは見ているし、段々気づかされていくように、サマーも物事に対してそういう風に「一方だけじゃない」って見方をしているんじゃないだろうか。
それは終盤のシーンにもつながる。
双方の、「お。偶然かな。にしても話すと面白い」が一致して初めて縁なのかなって。
サマーが結婚を選んだのも、きっとそう。
結婚後のサマーの服装がどうにも洗練されていない風に見せていたのも面白かった。それまでのキュートな恰好は? って思うけど、それも彼女の好みと思えば、前までの恰好は彼女の一面に過ぎなかったのかもしれない。或いはトムからどう見えているかの象徴なのかも。
面白かったから二度目を割とすぐに夫と観て、あらゆるシーンで、あーだこーだ言うのもまた楽しかった。
意識して観てみると、ストーリーの展開がいかにトム目線からかとわかる。「ここさ、思わせぶりなのに、サマーは何とも思ってないんだろうなあ」。
そして「こういう映画を観ながら、あーだこーだ言える夫婦で良かったあ~」と夫が珍しく言ってくれた。