たくさんの経験や感情を経て至るその場所~オットーという男~
「トム・ハンクスの映画に外れナシ!」って言葉、聞いたことあるかしら。皆さんもそう思う?
外れ、あるからね。
20歳のころに観た「ビッグ」でファンになってから、そのうちなんとなく追っているだけになったけど、「なにこれー。好みじゃなかったー」って映画もあるんだから。
「ビッグ」の時はパンフレットの表紙をチラと見ただけで「好みじゃなさそう」と思っていた。でも英語の授業やっていた先生が「面白かった! めっちゃおススメ~」って関西弁じゃないし英語でだけど、すんごいおススメしてきて。まあ観てみよっかくらいの気持ちで臨んだのだった。
それからトム・ハンクスのビデオを借りまくって、苦手だと思っていたのに雑誌「スクリーン」に何度も投稿するくらいファンになってしまった。
面白いんだもん。特に若い頃はコメディ中心で、終盤でホロっとかキュンとかさせられる。雰囲気作りが上手なのだ。
中でも「ターナー&フーチ」と「マネーピット」は大好きで、何度も観た。ドタバタのバカみたいなシーンで笑い転げた。彼の動きもなんだか独特で笑っちゃう。「トイ・ストーリー」のウッディを見て、トム・ハンクスが透けて見える! ーのはトム・ハンクスファンだろう。
「トイ・ストーリー」では「トム・ハンクスっぽい!」って思ったけど、その前には「フィラデルフィア」や「フォレストガンプ」でアカデミー賞を獲ってしまって、手の届かないところに行ってしまった。と寂しかった。
元々手は届かないけどね。あのころを境にすべての作品を網羅しようとは思わなくなった。みんなが観てくれるし!
ただなんとなく「オットーという男」は観てきた。
*ネタバレあります
奥さんに先立たれ、生きる目的も意味もないと思っている彼はとにかく不機嫌。
周りの対応に柔軟性がないとか、ルールを守らないだとかに怒っている。
ところが向かいに引っ越してきた若い家族と出会い、少しずつ心を開いていく。
そのていどは映画紹介で想像していたけど、いやあ私にとってはけっこう重たかった。
生きるのをやめようと何度も試みるシーンがいちいち辛くて。怖くて。そんなの見たくないと思ったけど、その度に思い出すソニアとの若かりし頃がどうにも泣けてくる。
なんてことのない会話や日常、嬉しかったこと、辛かったこと。共に経験した感情が。
まったく同じ経験なくたって、「ときめいたよね」「うれしかったね」「楽しかったよね」「悲しかったよね」「つらかったね」と自分の過去ともリンクして胸にせまってくるのだ。
自分にもそういう心の経験はあったもの。それはきっと誰もが。
そしてそんな思いにふけりながら命って消えていくものなのだろうか。
オットーの怒りや不機嫌さは、彼の経験や感情からで理由があった。彼はたくさんの歳月を積み重ねてきたのだ。愛する者を失って、日々生きている意味も見失ってしまう。
それは皆が至る姿や様子でもあるのではと想像する。観ている私たちも。そしてトム・ハンクス自身も。
オットーのやたらに几帳面なところを見ていると「ターナー&フーチ」でのトム・ハンクスの役柄を思い出して笑ってしまった。
友と張り合っているところやムキ―ってかんしゃく起こしているところは「トイ・ストーリー」のウッディを。
悩み深く内にこもって気難しいところは「プリティ・リーグ」。
ベンチに座っている姿やお墓に語り掛ける場面は「フォレスト・ガンプ」。
すっかり歳を重ねたトム・ハンクスがオットーと重なって、若い家族の女の子たちとのやり取りも、そのおじいちゃんに見えてくる。
まるでトム・ハンクスのための映画みたいだ。
オットーの若かりし頃もトム・ハンクスの息子が演じているし、映画プロデューサーは奥さん。
オットーはきっとすべての歳重ねた高齢の人たちに共感される部分がある。
怒りに満ちているようでも、それは突発的なものじゃなくて、あれもあってこれもあって年老いた人の歴史が不満となってしまうことだってあるのを私たちは理解したい。できればそうはなりたくなくても。
だってにこやかで穏やかな老人になりたいもの。
でもそうはいかないことだってあるよね。
近所の人たちとの交流が微笑ましい。特にジミーとマリソルは口を開けば、観ている側がいちいちほっこり。この映画で、生きている上での役割だとか人との交流についても考えさせられる人も多いだろう。
あっ。もちろんこの映画、私にとって外れじゃなかった。
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