夫婦ってなんなのか考えてしまう~フェイブルマンズ~
仕事と家庭。芸術的な感覚と論理的な考え方。栄光と孤独。誰だって人生には、あらゆる板挟みや葛藤があるものだ。
そして編集で切り取って現れてくる訴えたいことと受け取り方の違い。残酷さ。真実とは。
映像を編集してカットしたところに真実があったなんてわかってしまったら、温かい感動の裏に何があるだろうと考える。
「あの」シーンは強く心に残る。
私たちの見ている映像はなんなのだろう。真実の何がどこまでが見えていて、いったい何を知っているのだろう。その作品が、観ている側の私たちに「わかって」いるだろうか。
こういうのを見せられると、私たち観る側がいかにコンテンツを消費し、終わったらそれを無責任にやり過ごすものなのかと考えさせられる。
そして観る側の受け取り方によって、それは面白くもなるし、つまらなくもなるのだと改めてこちら側の力量や、観ている時の心の状態をも考えさせられる。
スピルバーグの自伝的映画だと言われている「フェイブルマンズ」には深く考えたいテーマがいくつもある。
でも終わってからずーっと私の頭の中を占領しているのが夫婦に関すること。
勝手に想像していたより、映画作りにつき進むだけのものではなく、「フェイブルマンズ」つまり一家の話であったし、私にとっては夫婦についての話だった。
*ネタバレあります
「僕だってきっとわかってもらえないだろうと思う部分はあるよ」と鑑賞後に言う夫に「いやいやいや。それを言えばみんなそうでキリがないよね」と返してさえぎってしまった。
これが私たち夫婦なのだ。と自分たちを確認してしまった象徴的なやり取り。もっと夫の話をゆっくり聞けば良かった。
分野として、夫は父親バート寄りだ。コンピューター先駆者で技術者のバートは、考え方も合理的で理屈でものを考える。真面目で、奥さんのミッツィを理解しようと根気よく接している。
でも「ミッツィにとっては」仕事に通じる才能に恵まれて、そこにまい進する夫は優しいけれど、求めているのはそこじゃないのだろう。
ミッツィには、感情を分かち合える人が必要だった。泣いたり笑ったり。率直な感情を自分の中から引き出してくれて、そのまま表せる相手を。
だから彼女の「わかって!」の気持ちがどうしてもむなしく空を切るだけ。会話していてもすれ違う。ミッツィにしたら「そこじゃない」おそらく期待外れの返答が、バートから戻ってくる。
このすれ違いが見ていてつらくて。
私はミッツィのように芸術家でもなければ、ピーターパンシンドロームと呼ばれるほどのものでもない。
たとえ芸術家でピーターパンシンドロームであっても、彼女自身ではないからその気持ちなんてわかり得ない。
だけど私だって、「そんな返事がほしいんじゃない」と思ったり、誰にもわかってもらえないんだなんて思ったり。そうやって泣いてきた日々がどれほどあるだろう。
夫も、一方的な私の怒りや主張に「かせみにはわかってもらえない」と口をつぐんだ日々がどれほどあっただろう。
そして、そういう瞬間や、わかり合えない部分は誰にだってあるんじゃないの。
目の前の夫や妻がどんな風に感じているかなんて、「わからない」。
夫の表情や言動、態度、そのちょっとした変化から私がわかるものや受け取るものがあるとしても、すべてはわからない。表れきっていない。表さない。いっしょに笑っていても、同じように悲しんでいても、感じているツボがちがったり、私ほど喜怒哀楽激しくはない。
それで不満に思ったことはないわけじゃない。でも私は、同じように「わかるよ」と感情を分かち合ってくれなくて良い。「ふうん」と聞いているだけで私はかまわない。むしろその方がラクだ。
何故なら多くの部分で感性が似ていると、決してわかり合えない部分がきわだってショックを受けてしまう。
いっしょに泣けば悲しみが半分にと言うけれど、たぶん似たタイプの人だと、私にとっては底なしにどんより重たいムードが漂う。それはそれとして夫には自分の世界で暮らしてほしい。
いっしょに楽しくフザけてゲラゲラ一緒に笑うばかりの人だと、私にとって友達の域を超えない。超えなさすぎて私にとって恋愛感情は持てない。
要するに相性なのだろうけどね。
私は「わかってもらう」に関して、あきらめているのかもしれないけど、どちらかと言えばわかり合えないのを当たり前としている気がする。数年前に友人にアドバイスをもらったからでもあるし、さすがに長く夫と生活して、わかり合いたい部分と距離を置いて快適な部分が実感としてわかってきたからでもある。互いに何となく触れていない部分に気付き、そっとしたままのものもある。
夫の中の知らない部分やどうしても理解できない部分。中でも仕事に関しては、いくら話されても私はきっと内容だけでなく、その面白さや苦しさだけでないあらゆる機微だってわかってあげられないだろう。
そして私の身体のことや心にあるもの、感性や気質の本質的なところは夫にはきっとわからないだろう。
そこはちがうとかわからないとかより、お互いそのものを受け止めるだけで良い。
つまり「フェイブルマン」では、どちらかと言えばバートの振る舞いの方に私は気持ちが共感しやすかった。
それでいて時々「そうじゃない」返答をされた時のミッツィの気持ちにも入りやすくてつらかった。
スピルバーグにとっては、大好きで尊敬する自分の両親を描いたものだから、どちらかが悪者になんてなってほしくないだろう。
確かにバートもミッツィも悪いとは思わなかった。どちらも、子供たちを大事に思い、互いを尊重しているのがちゃんと伝わってきた。
それだけにうまくいかないのは残念だけど、夫婦間のことは互いの気持ちだからその二人のことなど周りが憶測したって騒いだってわかり得ない。
終盤での場面が印象的。
バートが、サミーのパニック発作に気が付いた時。その対応の仕方で、ミッツィに対してどのように接していたかがわかる。その直後、不快な思いをするバートだけど決して彼女を否定しない。少し怒っているようには見えたけど。
怒っているように見えたのは二番目の妹も同じ。父親のバートに似ていると思われる彼女が、母親のミッツィに怒り、ミッツィに似ているサミーに怒るシーンがある。「身勝手で平気な顔をしているように見える」といったような内容だった。
ミッツィもサミーも決して平気ではないし苦しんでもいるのだけれど、父親の本当の心の中は、もしかしたらその次女が言葉にしたようなものなのかもしれない。
どうしても受け入れ合えない互いをそこに見て、胸が苦しくなった。
夫はこういった類の、日常生活を描いたような映画は得意じゃないと以前に話していた。
私は暴力や残酷なシーンが激しい映画は観れないし、観れる映画でもそういう場面は目にしないよう工夫している。全編にわたってそういうシーンが多いと、ほぼ観れないので本当に映画を理解しているのかどうか自分を疑っている。
そういった互いの趣味にも象徴されるように、観終わった後、二人の感想は全然違ったけど、「どうにか上手くいかなかったものだろうかね。残念だったよね」という意見に関しては一致していた。
私にとってはそれだけで充分だった。
ちがうところはあるし、きっとわかり合えないだろうと互いに思っているけれど、とりあえず受け止め合う。私たちはきっと互いが大切で一緒にいたい相手。その気持ちが互いに伝わっている相手。距離感も思いも二人にしかわからない。
その何週か後、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」を観て「楽しかったねー!」「あの場面カッコ良かったよね!」と盛り上がれた二人で充分なのだ。
あとサミーの大学二年生としての悩みを観ながら、「あの年ごろで将来について不安のある子はみんなああいう風に悩むものなのかね。オマエは息子か。って思ったよね」と、後で夫と話しながら笑った。