その人を取り巻く優しさはその人が発しているからなのかもなあ~さかなのこ~
男か女かはどっちでもいい
最初にドンとメッセージをつきつけられる。
映画予告ですぐ夫と「あれ観たいよね!」と盛り上がった。
「あまちゃん」で、とってもかわいい能年玲奈が、いろいろあって「のん」になったけど、私たちにとってはずっとかわいいキラキラの能年玲奈だ。
いちおう「のん」と書くけども。名前は愛のこもった呼び方の一つと思えば、どっちだって良いよね。
それを象徴するかのように、ご存知さかなクンは男性だけど、のんが演じる。
予告に出た時は一瞬おどろき、でもその時点でなんだか「なるほどねえ」と納得させられる。
そして観終わってからも、のんこそがピッタリだと確信している。のんの天性のものも演技力もどちらもなんだろうなあ。
映画を観て間もなく、さかなクンの書いたエッセイ「一魚一会」をネットで注文した。本が届き読む前に映画としての感想を書いておきたい。
*ネタバレあります
さかなクンのエッセイをもとに、さかなクンとしても活躍する「ミー坊」の半生が、脚色交えながら描かれている。
モモコちゃんの存在や出てくるタイミングなんかは確かにストーリーにうまくからまっていてファンタジックなんだけど、そもそもずっとファンタジックに描かれている。
最初のシーンも、さかなクン演じる人も、全体にファンタジーが散りばめられている。
水の中のこぽこぽした音にも引きずられ、不思議な気持ちで時々夢の世界にいるよう。
最後のシーンも、うまくファンタジーとしてフリを使ったなあ。
あと子供が何か夢中になるって、笑いながらハーメルンの笛吹き男(様々な説、言い伝えとは別で童話としての)についていっちゃうような、周りの見えなさってあるよなあとも思い返す。
でも「ミー坊」は確かに存在する。
さかなに夢中で、囲碁棋士の父親も心配するほどだったのだろうか。母親の信念の強さに圧倒される。
あんな素晴らしい母親だからミー坊はあんな風なのだろう。私ならもっと心配で迷って、あんなによくできた母親じゃあないなあ。落ち込みそうになるけど、私はこのていどなのだ。人は迷ったり葛藤したりうまくできなかったりにだって魅力がある。
だってミー坊がそんな風に感じさせてくれるんだもの。
ミー坊も現実に直面し、「社会にうまく適応できない」「不器用な」自分を感じ、でも日々を淡々と楽しんで暮らしていた。
ただ自分を受け容れていたのは、お母さんのおかげかもしれないなあ。とそこに思考が戻ってしまう。時々思い返して、ミー坊のお母さんみたいになれたらって自分の中で思うのはきっと悪いことじゃない。
そしてどんな風に接したってミー坊は変わらないから、周りの友人たちは安心してミー坊とかかわり続けられる。
周りの人の素直さや優しさをひき出すミー坊を見ていると、「フォレストガンプ」を思い出した。
周りにとっては、ミー坊の優しくてちょっと変わったところを受け入れると、自然に優しくなる自分を手に入れられる。それって自分に対しても素直になれる心地良い時間なんじゃないだろうか。
きっとみんなミー坊に救われているから、ミー坊の力になりたくなるんだ。
ミー坊が、みんなの力と優しさと素直さをもらえるようになっていくのは、ミー坊がそうだからなのだね。
大好きな物事に夢中になって追求していることが、ミー坊の人柄とあいまって、互いに良い関係を生んでいるのが見ていて気持ち良くてしかたない。
さかなクンにもたくさんの思いがあるだろう。外から見えているさかなクンとは違う面だってきっと色とりどりに、浅く深く持っている。
でも素直に優しく人と接し、自分に対して素直に優しくなるって、当たり前のようでできない何て大切なことなんだろう。
楽しく軽い映画だと思っていたけど、伝わってくるものに、何度も心の奥を刺激された。
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