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物の見方やお互いの環境がちがっても話せると良いな

 中学や高校の友達って一生続くよとか言われる。
 大事な思春期を共に過ごしたから?
 なんでなんだろう。
 何十年も経ってからうまくいかなくなった友達もたくさんいる。周りでも「高校生までの友達で今も続いている人なんていない」って人、けっこういる。

 私にはそういった友達がぽつらぽつらいるけれど、ずっと「気を使わなくて良くてラクだから」「何でも話せるから」と思っていた。
 だけど50歳過ぎた今、多くの面で考え方や環境が似ているのは、大人になってからできた友達。大人になってからと言っても、15年ほど続いているからそんなに気も遣わない。議論もよくするし、会った後に反省会をしてしまうけどそこも直接フォローし合える友達。
 最近はSNSでも趣味の合う人を見つけられて、その話で盛り上がってお互いの価値観もわかりやすい。他の面でちがうとそれ以上近づかないし、お互いの生活を守れる。好きなことで盛り上がるって楽しいからもう充分て気もしちゃう。noteなんか文や絵が好きな人でいっぱいだから書くのが好きとか見るのが好きとか、それだけでもう共通している部分があるし。

 じゃあ学生時代からの友達と何で今も会いたくなるのかしら。
 

 関西に住む彼女が仕事を変わるタイミングで、「少し日にちが空いたから」と突然来ることになった。

 中学一年生の時から同じクラスで一緒にお弁当を食べたり下校したり。多くの時間を共有してきた。
 部活もちがうしそれぞれ別のグループにいたので、しっかり話すのは下校時や電話だったけど。スマホはもちろんガラケーもポケベルもなかった当時、手紙を交換するのも面白くてよくやり取りした。
 中身は、多くが友達や恋、家族の話。勝手に悩んだり苦しんだり。
 きっと彼女は誰にも話さないようなことを私にも話していたと思うし、私も話しやすかった。
 ケンカしたことがないわけでもなかったし、卒業後に2年くらい絶縁状態になったこともあった。
 何となく疎遠になる時期もあるし、それでも会えば以前のように話せる。
 うれしいことがあると報告し、つらいことがあれば聞いてもらう。

 だけどこの40年間、「意外!」と驚かされることが多くて。最近もあった。いったい彼女の何を見てきて何を知っているのかと思う。
 少なくとも高校生の頃も大学生の頃も、その後も、何度も「彼女をよくわかっている」と思っていた。
 誰かを知ったつもりや、言葉だけでわかったつもりになっていても、人なんてそんなものなのかもしれない。

 中学のころだったかボクシングを習いたいと言い始めた時も驚いたし、積極的に前に出て皆の中心にいたから、気後れもするなんて思いもしなかった。そこに熱があってもなかなか踏み出せないタイプみたい。
 高校のころのファッション。
 大学の部活動。
 ひとり暮らしの料理。
 付き合う人。
 ことごとく意外に思った。

 最近になって、「店員に‘いつもありがとうございます’って言われたらもう二度とそこに行きたくなくなる」と聞いた時もビックリした。私は無理した会話とかなれなれしい店員とのやり取りは好きじゃないけど、おなじみになって挨拶するのはむしろうれしいよ。
 彼女はハッキリ物事を言う方だし、ずっと人気者でコミュニケーションについては上手に見えるのに。意外!

 でも彼女に関する全部について、私がイメージを決めつけていたのかもしれないなあ。

 彼女が結婚してから「子供は作らない」と話してきた時には少し驚いたけど、ダンナさんと話し合い納得しているならそれで良いと思った。ダンナさんや彼女の背景を思うにつけ、その決断は重たくも納得できるものだったし。
 私の方は息子が小学生くらいで、学校とのやり取りでつらい時期だった。
 なので遠慮なく子供の話を聞いてもらった。
 彼女は彼女で仕事についてたくさん話してくれた。

 それぞれに環境がちがったけど、お互いに愚痴を言い、それを聞いた感想を話し、互いに近づいたり離れたりを繰り返し。

 ある日、自分に子供がいない苦悩や葛藤を話してきた。どうしても卑屈になる瞬間があるのだと打ち明けてくれた。

 少しショックだった。もっと納得づくだと思っていたから。
 でもそりゃそうか。一度決断したからって、割り切れない部分て何にだってあるだろうし、気持ちなんて変化するものだし。
 そんな思いを子供のいる私に話してくれたことがありがたかった。

 子供ができると、生活のほとんどを子供の時間に奪われる。それはうれしくもあるし豊かでもあるのだろうけど、心労だってまちがいなく増える。
 子供の気質や性格に振り回され、自分の生活時間がなくなり、夫婦の関係は変わってきて、でも子供の成長に伴いその成長ぶりは何よりもの喜び。それは自分の人生の中で大きすぎる部分。だから話さないのはそれはそれで不自然。悩みの大半は自分のこと以上に子供のこととなっていくし。

 ただ私にも子供のいない時期が長くて、夫と話し合った期間も病院に通った期間もあって、いない側の気持ちを少しは経験している。

 いなかった頃に、「不妊治療の人たち」のサイトを時々見に行っていた。少し追っているとそこで子供ができた途端に皆が「おめでとう!」「卒業ですね!」「さようなら!」となるのを見て心地悪さを感じた。
 子供ができたら、万々歳なのだろうか。それに伴う苦労もあるだろうに。と子供いない側からでもそう思った。そして子供ができた側は、子供のいない人たちともう関わらないのだろうか。あんなに愚痴や悩みを書き合っていたのに。お互いに「アナタにはわからないでしょう」と壁を瞬時に作るのだろうか。
 そりゃそういうサイトなのだから当たり前なのかもしれないけど、それだけでつながっていたのねと改めて思う。

 希薄という意味ではなく、遠かったら遠いなりの距離感で付き合えないものだろうか。身近な人たちを思う。
 子供がいないことだけでつながるって寂しい。それは子供がいるだけでつながっていることでも一緒。
 いわゆる「母親友達」。
 母親友達だって、しょせん「母親」友達なのだ。

 だって友達になるには、積み重ねが必要だもの。
 知りもしないで「友達になろう」なんて不自然。どこかで共通する部分があるとわかってからも、ある程度は自分自身を語る瞬間も出てくる。
 その中で私には子供の存在があるし、相手には別の何かが生活の中で大きかったりする。

 そして打ち明けるとね。私にも私の卑屈になる瞬間があるよ。
 身体が弱いという動かせない事実。それが生活のたくさんのことにつながっている。病院。家事。仕事。子供がいると言っても、先生や周りの母親から一人っ子を責められてきたことも。
 でも私は私の人生が嫌いじゃあない。
 
 アナタに子供がいなくても、私が人にはつまらなく見える選択しかできない人生でも、アナタと話して泣いたり笑ったりしていたい。

 私の思いの全部を聞いて、彼女は少し落ち着いたようだった。

 議論するのが好きとか率直に意見を言い合いたいとか言う人と一定数、出会えてきた。率直な意見を聞けるのは面白い体験。でも議論て、聞こう、知ろう、尊重しよう、そして自分の感想や意見を言おう。って対等にあるところが基本。
 自分が気持ちを発散したいだけが目的になってしまうと、それって相手を尊重できていないから議論にならない。

 ただ彼女がそんな風に議論するのが好きなタイプだなんて全然知らなかった。

 久しぶりにこちらに遊びに来た時、〇〇擁護派だと打ち明けられた。

 ちょっと待って。その人のこと、応援するのはかまわないけれど、「派」って何。
 私はその人のことを全然好きじゃないし反対側の意見が多いけど、別に「反対派」じゃないよ。理解できる部分、発言もあるし。でもだからって擁護派でもないよ。

 よくよく聞けば彼女は、その人自身を応援しているわけではなかった。自分より上の立場の人にしっかり意見できる部分が良いなと思っているだけのようだった。
 
 それならその人を擁護しなくても良いよね。みんないろんな面があるから、そういう部分を持っていても別の面もある。すべてを応援して「〇〇派」になるかどうかは別だよね。
 立場が違う人にどんな意見をどんな風に言うかも人それぞれ。あえて黙っている人たちだって見えないからわからないけど、山のようにいるものだと思う。
 と話すと、確かに。と納得していた。

 本当に納得しているのだろうか。

 バイバイと帰っていった後も悶々としていたら「生きてきた中で一番楽しい旅行だった」とメールが入った。

 嬉しかったけど、そこでもまた驚いた。
 
 彼女が旅行自体を楽しんでいるように見えたことが、実は今回までなかった。
 私が今住んでいる土地に彼女が遊びに来たのは三回目。前回までの彼女は、「会うことが目的なのね」と感じるほどに、ただ私と会って喋って帰っていくのが常だった。
 それはそれで旅の目的として全然あると思うし、会いに来てくれたのは純粋にうれしい。私も旅行してもその土地をじっくり観光するタイプではないので、気持ちはわかる。
 でも食事や風景などその土地ならではの、ちょっと変わったものすら楽しまないとしたら、さすがにもったいないなあと思っていた。
 それが今回初めて写真をたくさん撮って「キレイやね」「これ撮っとこう」と積極的だった。こちらの名産や土産物も楽しみ、さらに初めて「かせみちゃんの家を見たい」と言って私をおおいに慌てさせた。掃除しないで出てきたからそのままを見せる羽目になってしまった。でも「わあ。こんなところに住んでいるんやねえ」「写真撮って良い?」と感慨深げ。

 彼女が変わったのか、私がこれまで気づいていなかったのか。

 そして、あんな風に社会だとか世間だとかについて話したのも彼女にとっては面白い思い出となったと知った。
 

 その後も彼女は新しい職場について言及するのだけど、職や肩書でひとくくりにするところが気になって、私の考えも伝える。
 その仕事でもそのような肩書でもちがうタイプの人っているよね。信頼できる人もいるし、感じの悪いイヤな人もいる。と具体的に例を挙げる。アナタがやたらに敬ってくれる「母親」だって、色々な人がいるよと話す。
 すると、また納得していた。

 彼女がそんな風に人を見ていたことも、私の意見に耳を貸して自分を省みることも、どちらも意外だった。

 少し極端な考え方に思えると毎度「えええ。そんな風に考えていたの。じゃあわかり合えないかも」と思ってしまう。
 でもこちらの考えを伝えてみるとそんなことはない。
 意見がちがうだけで「わかり合えないかも」と思ってしまう私にも偏った考えがあるのだろう。
 彼女の方が柔軟なんだろうな。

 ただ彼女自身のそういった社会に対する不満や心細さ、孤独について話を聞くにつけ、そのような話をする機会が普段なさそうだとも感じる。
 だってそういった話ってなかなかしにくいよね。するとして、言われた側は深くつっこんだ意見まで気軽には言わない。

 私の側からは、友達関係を続けてきた彼女の他の面も知っているから、彼女とちがう自分の意見を言いやすいのかもしれない。「合わない」と避けたりフェイドアウトしたりせず、自分の意見や考え方を言える。

 もちろん合わない人と無理に友達関係を続ける必要もなくて、しんどかったら距離を置いた方が良いと思っている。
 相手がその彼女だから、私にとってはずっと「意外」な面を見続けてきても、友達でいられた。
 そして彼女とのやり取りがあるから、他の誰かとどこかがちがったところで関係を続けていけると信じられる。
 知っている人の何が大事かを考え続けられている。

 ちがう環境でも、ちがう考え方でも、意外な部分であっても。
 それぞれの考えや意見に聞く耳を持つ。
 相手を「そういう考えなのか」と知る。
 相性が悪くなければきっとしばらくするとまた会いたくなる。会うといっぱいしゃべってお互いの気持ちに触れて、けっきょく大笑いして「またね」と別れる。
 彼女とずっとそうやってきて、もうそれが自然になっちゃっているんだ。

 彼女との関係をヒントに、そんな風に人とつながっていけたらと最近しみじみ思う。


読んでいただいて、ありがとうございます! 心に残る記事をまた書きたいです。