AIの時代に絵なんか描いても仕方がない?
AIが芸術の分野にまで進出する日も近いのではないかという憶測が飛び交っている。それだけインターネットユーザーやSNSの利用者が仮想現実の世界に入り浸っているのだな、と感じる。
私はAIが人間に匹敵する絵画芸術を生み出せるとは思っていない。おそらくAIの芸術分野への参入を危惧する人たちは過去の歴史が作ってきた変化が同じように起こることを恐れているのだと思う。
確かに今までの歴史を振り返ると、技術の進歩は画家や芸術家たちを社会の隅に追いやってきたかも知れない。西洋の絵描きの主な収入は肖像画であったが、写真の登場により肖像画の注文は激減した。カラー写真の登場で風景画の需要もだいぶ落ち込んだかも知れない。
さらに印刷技術の向上により絵画の複製が可能となり、この技術をものにしたクリスチャン•ラッセンなどは大きな収益を得ることとなったが、そうでなければ芸術は副業や趣味の域にまで追い込まれてきた。
現代では絵画はデジタルで製作されることが増えてきて、一点ものの作品は少なくなってきている。作品の定義が物質的な絵画から、画像、データに置き換わってきてはいる。
しかし、商業的に成功することと芸術の価値は分けて考えなくてはいけない。デジタル化された今日でも美術館でナマの作品を見ようとたくさんの人が観覧券を買うのだから、ナマの、一点ものの作品の価値そのものは衰えていないと言える。
そして忘れてはならないのが、一点ものの作品を売る側が決して商業的に成功していないとは言えない。収益を派手に出している作家や業界は知名度や華々しさにおいて目立つが、決して一点ものの作品を売る作家、画商が勢いや意欲を失っているわけではない。
むしろチャンスかもしれない、と私は考える。AIや印刷技術の発達、そしてデジタルでの絵画製作に対して脅威を覚えている人々には盲点があることを私は指摘したい。
それは物質の強みである。そのヒントは日本画にある。近年、美術を志す学生の中に日本画を描きたいと希望する学生が増えていると聞く。その理由の、ほんの一部かもしれないけど、使う画材、使う素材が他の絵画と比べてかなり特殊である。日本画は油絵や水彩画のようにチューブを絞り出せば簡単に色が出せるような画材は使わない。色を出せる顔料と、色を紙に定着させる糊である膠は別々に売られていて、絵を描く人が自分で調合して絵具を作るのだ。膠と顔料の比率、使う和紙によって様々な色の変化を出せる反面、コントロールが非常に難しい。
このように日本画は常に素材との格闘である。熟練すると素材と友達になれるそうだ。デジタルでの絵画製作をしている人がこれを知ったら目が点になると思う。まるっきりやってることが違うのだから。
物質と絵画芸術の関係性は工業化と共に薄れてきた。伝統的な和紙、絵画の原料や道具を作る人も減ってきて存続が危うくなっているところも少なくない。現に、三千本膠は断絶の危機を迎えたが、京都の学生や教授を中心に膠の復活が試みられている。
なぜそこまでするのか?なぜ日本画でなければならないのか?興味を持たれた方はぜひ、奥深い日本画の世界をのぞいてみて欲しい。実際、日本画の画材は素晴らしい。油絵も水彩も全ての絵画の画材は自然物由来であるが、日本画ほど自然に近い状態で使用している絵画技法は少ない。これらの画材を使用している時、そして画材の良さを作品に活かすことができた時、なんとも言えない幸福感に包まれる時がある。それは単なる作者の自己満足にとどまらず、画材を生産している業者、使われた自然物、全てが一体となって絵画の形を成しているのだ。
絵画のキャプションは普通、タイトル、作者、製作年であろうが、使われた素材、例えば和紙を作った工房の名前などもわかれば記載することが望ましいと思えてくる。
絵画芸術の物質への回帰は、昨今の世の中の状態にもリンクする。格差社会、知識や情報による人々の分断の中で、つながりが失われてきた。ロシア、ウクライナで起こったアメリカの代理戦争を報道するマスコミは世界を「正しい国々」と「間違った国々」に分けてしまった。しかし、その結果、ヨーロッパでは制裁を課してかえって自分が困っている。燃料不足が起き、化学肥料を買えなくなった農家が立ち行かなくなっている。2022年は石油を通して世界がつながっていたことに気づかされた年でもあった。来年はエネルギーを通して世界が再び調和を取り戻す年になってゆくであろう。
本当に大切なのは拝金主義ではない、知名度でもない。お金は単なる紙切れだが石油は寒い冬に暖めてくれる。化学肥料は食料を生産するのに欠かせない。デジタル化に溺れていてはこうした大切なことは見えてこない。絵画芸術の流れも、自然と人との調和の中でこそ発展していくのではないかと思えてならない。
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