詠みすての歌ども
数ある文学のかたちのなかでも、短歌の特性とはなんであろうか。そうたいそうなことなど意識しなくても、日本人なら誰でもちょっとした工夫と心がけで、三十一文字に己の心情を託すことができる。そのときときの心情を、歌にのこしおくことができる。その身近さこそが、あるいはその最たるものかもしれない。もっともこの歌どもには、フィクションとしての心情もことわりなく混じっておりますが。✽印は自選秀歌、✍印は随筆へのリンクです。
詠みすての歌どもいくつ眺めては かひあるものを拾ひてぞみむ
平成年間
✽今日は今日 明日は明日の務めひと 吾ゆく先に散りぎはの花
若草の君をみつめて 吾が胸の思ひの深さ はかる頃かな
知らぬまに芽吹きたるかな けやきの木 あなこの年も夏立ちにけり
✽夏の日にあなたがくれた優しさに こたへるための秋は来にけり
駅路ゆく人らのこころ 映してか 吐息のままにもやがちにけり
うしろ髪をひかるる心地 たちきりて 記憶の底にかたづけた春
すきといふ情きはまり すぎてゆくときをまちつつ すれちがふらむ
✽空のあお 心のあおにひきうつし このわだかまり 吹きながしてむ
生きにくい今日はくれたり いとしさのつのる頃には 夜もふけぬらむ
芸術ははだか踊りにあらざれば かざらむことも これかへりみよ
ぽっかりと空きたるあなは うまらずに たれか忘れし傘はいづこぞ
令和年間
新緑のみどりまぶしく 青空をせにしたかぜの ここちよきかな
言の葉によりてすくはむ 世のなかの こととこころのをりなすあやを
悟りでもひらいたような顔をして 逝ってしまいぬ 我がおとうとは
いにしへのヤングママなりし 母上もお年をめして しわぞふえたり
✽あの春は夢まぼろしとなりぬらむ これはあせびと言ひし人さへ
✽なぜ生きる 問はれたのちの反問の エコーのうちに答へはあらじ ✍
絶望に生きる希望のあるうちは 惜しくもあるか いのちなりけり ✍
お気持ちをセンチメントでぬりかため 武装したまま けふにかけだす
つかのまの休息となるエレベーター 運ばれてゆく身体いくつか
さりげない君の仕草のひとつから 夢の逢瀬にたちまどひつつ
独裁者の夢のあふれし迷ひぢに 吾さまよへる 出口はいづこ
香辛料 とほき波路をわたりきて 舌に楽しむ世界の刺激
✽まだ歌にならざる恋にひかるるは 肩にかかりてはゆる黒髪
✽いかならむ 思ひかくしているのです 伏目がちなるあはき御胸に
どぎまぎととりかはしたるつけぶみの 波紋となりてきえてゆくまで
✽幸せはどこかにあればよいものと 思へば それでよいものである
水底の都市の民にはあらざれど 空すずしくぞ 見ゆるなつかな
身のうちのうつろよろひているからの やぶれて空にかへるときはも
令和六年
ときの間にむなしくなりぬ 心かな 春のあらしの吹くまでもなく
✽かたときの恋かあらぬか 春かすみ 隠した花を手折りてしがな
夏立ちぬ 山あひの街をかざれるは 緑のにしき うすくもこくも
おつとめのあるばかりかな 日ざらしの心ひきづり あくがれてゆく ✍
✽わが胸のうつろのふかさ はかりては たいしたことはないとたしかむ ✍
赤十字 針に抜かれた血潮には ゆきてかへらぬ わが身ありけり
✽あるじなく幾年ならむ 雨風にどくだみ団地となれる廃屋
田舎では早苗とりしか こちらでも都会を雨が濡らしています ✍
見わたせば かげもかたちもうつろひて ももとせのちの今ぞはかなき ✍
✽波さそふ 彼方の国を思ひつつ 風吹きぬけよ身体のトンネル ✍
辞世
✽たちまどひ わが来しかたをかへり見ば 墓標のごとく歌ぞありける