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幸せについて。僕たちが本当に会いたいのは誰か?いつだって自分を待っている人がいる、という話。

あの人に会いたい気持ち。
恋人や家族。会えばいつも笑い合える友だち。
ふとした瞬間に会いたくなるあの人が、誰にだっているんじゃないでしょうか。

あの人に会いたいのは、あの人と過ごしている時の自分になりたい、ということかもしれません。
あの人と一緒にいると楽しい、落ち着く、幸せ、そういう心持ちの自分になりたい。
だからあの人に会いたい。

だとしたら、「あの人に会いたい」とは、「あの人と過ごしている時の自分に会いたい」と、同じことかもしれない。
そしてこの文脈で、僕たちが本当に会いたいのはいつだって自分自身なんじゃないかと、思い至ります。

そんなのどうだっていいよ。会いたいから会いたいんだよ。自分に会いたいなんて意味わかんないよ。と、感じるかもしれません。  

でも僕は、この理解は自分で自分を支える為に、必要な理解だと感じます。
「あの人に会いたい」に限らず「あれやりたい」「これやりたい」、逆に「あれやりたくない」「これやりたくない」などの、あらゆる欲求はすべて「その経験に触れた自分」に会うことを目指しています。

たとえば、美味しいものを食べたいのは、美味しい〜っと幸せな気持ちの自分に会いたいということ。

もし毎日がつまらなく味気ないものだったとしたら、それは会いたい自分に今この瞬間、会えていないから。
会いたい自分とは、気持ち豊かで幸せな自分のことです。
なぜなら、「人は幸せになるために生まれてきた」、つまり、人は「幸せな自分にいつだって会いたい」から
僕はそう考えています。


ここで、僕自身の話を少し。
20代。僕は大きな挫折を経験しました。
振り返ればごくありふれた「夢破れる」という話です。

とは言え当時の僕にとっては深刻で、生きる意味を完全に失った状態。
自分の命を断つための具体的な策を考えること、数年。
しかし実際に踏み切る勇気は無く、生きることをやめられない命を、なす術もなく抱えているような毎日でした。しんど〜、言うて。

来る日も来る日も、「もう無理だ」「生きていても仕方がない」「どう生きればいいかわからない」「何をしたらいいかわからない」「オレの人生は空っぽだ」「終わった」そんなことばかりが、頭の中をぐるぐる。

そんな最中、救いを求めて図書館に通い詰め、「思想」「哲学」辺りの本を片っ端から手に取りました。
「生きるとは何か?」「なぜ生きるのか?」「どう生きればいいか?」の、答えらしきものが欲しかった。

実際、何冊かの本は「いやこれ、オレの事書いてあるやん!」となりまして、先人の知恵に多くを学び、救われもしました。
もちろん、一気に状況が好転することはありませんでしたが、体に染み付いた「くせ」を矯正するような感覚で、自分のバランスの整え方を徐々に覚えていきました。

そして、あれから10年経ちました。
今は、清々しく気持ち豊かに生きることができています。
仕事も趣味も周りの人たちとの関係も、いい感じであり、幸せな日々。日常的なストレスもほとんどない。
当時の追い詰められていた自分には、こんな10年後を想像することは、全くできませんでした。

とは言え、今だに原因不明の発作的な憂鬱や虚無感が襲ってくる瞬間はあります。でも、それを収めるための術も自分で心得ている。
幸せな自分にほとんど毎日、会うことができている。そう感じます。


ところで、ユダヤ人でありナチスドイツ時代に強制収容所に入れられていた、精神科医で心理学者のフランクルという人がいます。
強制収容所での、壮絶な体験を綴った彼のあまりに有名な著作「夜と霧」の中に、こんな意味合いの文章がありました。

「誰にだって、自分のことを待ってくれている人やモノがある。その存在は自分の生を肯定する力になる」
みたいな。ずいぶん前に読んだので、違ってるかもですが、僕の中ではそういうニュアンスで残っています。

そして僕はこれにならって、「幸せな自分」もいつだって自分のことをどこかで待ってくれている、と考えています。
だとしたら、会いに行こう。
会いに行くための手がかりを探そう。自分でそれが分からなければ、先人に知恵を借りよう。そんな風に思うんです。

きっと人間の苦悩に、そんなに種類はありません。
自分と似たような壁にぶち当たった先人はたくさんいますし、僕なんか比べ物にならない壮絶な絶望体験だってごまんとあります。

「あなたより大変な人はいくらでもいるんだよ」と言いたいのではありません。
そうじゃなくて、壁にぶち当たった先人たちはどうしたか?どう考えたか?どう動いたか?を学んでマネをすればいいんじゃないかと思うんです。

現に僕の頭の中も、たくさんの先人からパクったものの寄せ集めです。オリジナルなんて皆無。


話を少し戻して、初めの方で、自分が本当に会いたいのはいつだって自分自身であり、その理解は自分を支えることにきっと役に立つ、と書きました。

僕たちは、幸せになるために生まれてきた。
それは、幸せな自分に会うために生まれてきたということ。

であるなら、今がもし辛くしんどいものであったとしても、幸せに生きる自分が必ずいつもどこかで、今この瞬間も自分を待ってくれている
幸せになりたいとは、今この瞬間も待ってくれている幸せな自分に会いたい、ってこと。

躊躇せず会いに行こう。
自分を待つ人に。
今か今かと、自分が会いに来てくれるのを楽しみに待っている人に。
たとえそれが自分であったとしても、その存在があることは、人生を生きる理由になり得る
生の肯定。

自分を支えることにきっと役に立つとは、そういう意味です。


僕もずいぶん長く待たせてしまいましたが、きちんと会うことができました。
もちろんこの先、何かのきっかけでまた、見失う可能性だってあります。

でも、それでも、ここに書いたことを自分の中に大切に暖め、どんなときだって幸せな自分がいつも必ずどこかで自分を待ってくれていると信じよう。
そして、たとえ時間がかかったとしても、会いに行こう。繰り返し、何度でも会いに行こう。

そんな風に考えています。

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