見出し画像

【twilight 第10話】 白髪 空き地

髪を切ったセンセイは鏡の前に立っていた。少しだけ右寄りの分け目から、一本だけ白髪がのぞいている。
よく見れば、他の髪と比べてうねうねと曲線を描いているそれ。
厳かな手つきでつまむと、引き抜こうとしてはみたがなんとなく思い改めて、そのままにしておくことにした。

「そうだよなぁ」と年齢を重ねるにつれ忘れがちな自分の年齢を、センセイは思い出していた。それについては別段の感慨もない。
ただ目の前を通り過ぎて行く、ありきたりな風景を眺めるような営みだった。

以前、仕事の帰り道に少し遠回りをすると、街の一角が大きな空き地と化していたことがあった。
何度も通っているハズの道なのに、そこに何が建っていたのか全く思い出せないセンセイ。
(マンション…いや、古びたホテルだったような…あれ、一階が飲み屋さんの雑居ビルだったっけ…)

散々思い出そうとした挙げ句、文明の利器を頼ることに決めたセンセイ。
スマホを取り出すと、グーグルストリートビューを開いてみた。
(あー!そっかそっか!そうだった!)
と、ひとりスッキリしたセンセイは、また家へと歩きだした。

その時、歩きながらセンセイは思い返していた。パチンコ屋の駐輪場の屋根の下で、雨宿りをした日のことを。
予報外れのゲリラ豪雨だった。
降り出したと思った瞬間には、バケツをひっくり返したような強い雨足に、大急ぎで駆け込んだ駐輪場。
傘を持たないセンセイは、大きな雨音を聞きながら、やまなかったらどうしようかと思案に暮れていた。

客の出入りの際にたまに開く、パチンコ屋の自動ドア。その度に漏れてくる店内の音とタバコのにおいが、初夏の蒸したアスファルトの香りや雨音と溶け合って、微かにセンセイの元まで届いた。
早く帰りたいなぁ…。
シャツの肩と、スニーカーからはほんのりと雨水が染みていた。

結局あの日はどうやって帰ったんだっけ。
センセイは記憶の糸をたぐり寄せてみるがうまくいかない。
雨はやんだのだろうか。それとも、濡れながら傘を買いにコンビニまで走ったのだろうか。

思い出せないままに、家へと続く最後の直線。ゲリラ豪雨に打たれたあの日と同じ時間帯だが、冬の今はもう真っ暗。ついたため息が、ほんの一瞬だけ街灯を撥ねて消えた。
同じく、さら地になった空き地と、センセイをつなぐ糸もプツリと切れたのだった。

いつも見ているようで、本当はちっとも見てやしない。そうしている内に、自分の気がつかないところで音も立てずに移ろっていく。街も人も。

たまに立ち止まって感傷に浸ることはあっても、それさえたちまち消えてしまう。消えてしまった後では、ついさっきのことだって遠い昔に思われる。
たとえばそれは、朝まで一緒にいた人が遠くへ旅立った日の夜に、もうその人が思い出になってしまうように。
そういう風にして、センセイもまた生きている。

「ちょっとこれ見てよ」
センセイは奥さんにかけ寄る。
「あなた、気付いてなかったの?」
意外だといった奥さんの反応にセンセイは続ける。
「なんだ、気付いてたなら教えてくれたっていいじゃないの」
「教えてたらどうしたの?」
白髪をつまんだまま、センセイには返す言葉が見当たらなかった。

「いいじゃない。新しい髪型、似合ってるわよ」
黙ったままのセンセイに奥さんが続ける。
「抜いたら増えるって言うし、そのままにしておけば?一本だけだし」
「そのつもりだよ」
ピリオドを打つようなセンセイの返事だった。

「まさかね、自分がこんな年齢になるなんて思いもしなかったわよ」
いつかのセンセイの母親の言葉である。誕生日であったその日、センセイは電話をかけたのだった。
「お母さん、おめでとう」
ちっともめでたくないといった声色で、センセイに返ってきたのが先の言葉である。

演技でもいいから喜ぶ声を聞きたかったセンセイだが、それはこちらの勝手な都合であった。
父親の愚痴をいくつか聞いてあげると、少し母親の声も元気を取り戻したように、電話口で響いた。
これでいい。ひと段落すると「じゃあね」と告げて通話ボタンを押して電話を切った。

センセイの気がつかないうちにパチンコ屋は消え、白髪は生え、自分も周りも歳を重ねる。そこにあるのは、「移ろい」だけである。
今この瞬間も、センセイの気がつかないところで無限の移ろいが移ろっていく。

どうせなら、坂本龍一みたいなカッコいいロマンスグレーの頭になりたいなぁ。
センセイは想像してみる。白髪頭の年老いた自分を。
だが、そのイメージに横から割って入ってきたのは、ハゲ頭の父親だった。

布団に包まって、坂本龍一と父親が交互にまぶたの裏側に映し出された。その映像と入れ替わるようにして、寝室にイビキが聞こえ始めた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?