【twilight 第9話】鍋 宝くじ
台所に立って夕食の支度にとりかかるセンセイ。今日は奥さんの帰りが遅く、久しぶりの自炊である。
冷蔵庫を開けてみると、野菜室にしいたけ、白菜、大根、豆腐がある。
こういう時、奥さんならパパパっといくつかの料理が思い浮かぶのだろうが、レパートリーが少ないセンセイは「鍋にしよう」と、他の選択肢のことは考えもせずに、冷蔵庫の品々を手に取った。
その昔、居酒屋の厨房でアルバイトをしていたことがあるセンセイは、レパートリーさえ少ないものの、包丁の使い方や一通りの調理方法については心得ている。
洗った野菜をまな板の上に乗せて包丁を入れていく。切られた大根がザクッと歯切れのよい音を立てた。几帳面な奥さんがマメに手入れした包丁は、いつだってよく切れる。
たまにしか台所に立たないセンセイであるが、そういう瞬間に自分の目に触れないところで、身の回りの品々を丁寧に手入れしている奥さんの姿が、目に浮かぶようである。
コンロに乗せた鍋から上がる湯気が、静かに台所をぬくもりで満たしていく。
冬の台所がセンセイは好きだ。料理をしているうちに、次第に室内が暖まっていくのを感じることができるから。夏場は熱くて近寄りたくないコンロの火を、冬場はありがたがっている。
「勝手でごめんよ」と、なんとなくコンロの火に詫びてみたセンセイ。鍋のフタがカタと音を立てた。
「おい、おまえもし宝くじが当たったらどう使う?」
親方が作業の合間にセンセイに問いかける。
「なんか、この頃の宝くじは一等が数億円って言うじゃねぇか。おまえどうするよ?」
「急にそう言われてもですねぇ…そうだなぁ…」
「そうだなぁもヘチマもあるか。なんだよ何も無いのかおまえは。つまんねぇヤツだなぁ。ロマンってもんが無ぇなぁおまえには」
「ちなみに、親方ならどう使いますか?」
「オレならマンション建てて、不労所得をゲットってところよ」
ロマンとは…と喉元に出かかった疑問を飲み込んだセンセイは質問する代わりに
「それはいいですねぇ」
と相槌を打ってみた。
「でもよ、一説によると宝くじで大金を手にしたら逆に不幸になるって言うじゃねぇか」
「そうなんですか?」
「まぁ、本当のところは知らないけどなオレも。ただ、噂かなんかでそう聞いたことがあるんだよな」
「そうなんですね。でも、言いますもんね、火のないところに…」
「煙は立たない、だろ?知ってるよそれくらいオレも」
センセイに最後まで言わせなかった親方は、満足気であった。
食卓に並べた料理をゆっくり口に運ぶセンセイ。奥さん自家製の柚子胡椒の香りが、口の中でふんわりと弾けた。
元々早食いだったセンセイは、「よく噛んで食べなさい」と奥さんの言いつけを、1人の食事の場面でも守っている。ひと口30回とまでは言わずも、20回は噛むように心がけている。
静かな室内で、柔らかく茹で上がった鍋野菜を交互に味わってみる。
食事の時間と言えば、普段は奥さんのおしゃべりを聞くことのほう、つまり、舌よりも耳がよく働いているセンセイだが、こうやって1人で摂る食事はそれとはまた違う味わいがあった。
シンプルに食事にだけ向き合いながら、「はぁ、おいしいなぁ」とひとりごと。奥さんとの食事もおいしいが、1人の食事もまたおいしい。
ひとしきり舌鼓を打つと腹八分になったセンセイ。手を合わせて「ごちそうさま」とつぶやいた声は、生活の中に打たれた句読点のように、微かに室内に響いた。
「親方は宝くじ買うんですか?」
「そりゃ、もちろんよ。毎年買ってるよ」
「さっきの噂、信じてないんですか?」
「そういう訳でもないんだけどな。オレならもっとうまくやれるってことよ。不幸になるってのは、うまいことやれないってことだろ?」
「うーん…」
「まぁ、そんなに考えることでもねぇよ。どうせ当たんねぇから。でも、買わないと当たんねぇからな。当たった時のことは、その時に考えりゃいいだろ!わははは」
親方の大きな笑い声はしばしば、センセイのもの思いを吹き飛ばす一陣の風となる。そして、それはセンセイにとって、心地よく吹く風とも言えた。
豪快に笑えさえすれば、きっと物事は悪い方には向かない。親方を見てセンセイはいつもそう思うのであった。
「ただいま」
奥さんが帰宅したのは22時を過ぎた頃だった。
「おかえり。鍋を作ったんだけど食べる?」
「ありがとう。今着替え済ませてくるから」
少しだけ肩を落としたように見える奥さんの背中が、部屋の扉の向こうへ隠れたのを見て、センセイは支度に取りかかった。
「この大根、もう少し薄く切れなかったの?」
チェックの厳しい奥さんである。
「でもまぁ、作ってくれただけで十分よね。おいしいわ」
「ははは。それは良かった」
センセイは笑った。
「それはそうとさ、ちょっと聞いてよ今日さ…」
茶碗片手に、今日の出来事を洗いざらい話し始める奥さん。ただいまと言った時の声とは、明らかに違うトーンになっていたことをセンセイは見逃さない。きっとセンセイの料理は、合格点だったのだろう。
ところどころ、愚痴とも不満とも取れる内容を、ときどき奥さんは小さな笑いを混じえながら話した。
追加の野菜を鍋に入れると、センセイは卓上コンロの火を点けた。しかし、どういうわけかうまくいかない。何度やっても火がつかない。
「ねぇ、まさかガスのセットし忘れてないよね?」
図星であった奥さんの言葉を、ひと足遅れて追いかけてきたのは、2人の大きな笑い声であった。