【twilight 第8話】余白の目立つ襖絵
「あー、もう、遅いなぁ前の車」
ハンドルを握りながら奥さんがヤキモキしている。
「大切なものでも運んでるんだよ、たぶん」
助手席でそう返すセンセイに奥さんが詰め寄る。
「何よ、大切なものって?」
「んー、たとえば、2段づくりのバースデーケーキとか」
「そんなことあるわけないじゃないの」
センセイの空想は不採用だったようだ。
ガラガラの国道沿いに立つ銀杏並木が降らせた葉が、フロントガラスを叩く。
そのあと風に急かさるようにヒューと運ばれた先では、通りに面したラーメン屋の暖簾が、同じ風を受けてのんびりと揺れていた。
「いい?12時には買い物を終わらせないと。それからお母さんのところに寄って、2時には荷物が届くから家に帰らないといけないの。そしたらその後は…、」
少し早口で奥さんはそう言った。
「忙しいね」
「そうよ。時間は限られてるんだから」
古本屋街の店先に構えられた露店では、それぞれの店主が忙しなく動き回っていた。年に一度の古本フェスティバル。
狭い路地にごった返す買い物客に混じって、くたくたのコーデュロイをまとったセンセイの姿があった。
商品棚に所狭しと並べられた古本を物色する客の頭上では、細長い四角い空が乾いてある。その下で時折りヒューと吹く木枯らしが、知らないおじいさんの帽子をさらったりした。
お目当ての本があるでもなく、暇つぶしに立ち寄ってみただけのセンセイだが、活気あるフェスティバルの雰囲気に飲まれて、鼻歌のひとつもこぼれるのだった。
かねてから人通りの多い街ではあるが、イベントごととなるとそれに輪をかけたようで、雑踏という言葉がピッタリだなぁと、妙にしっくりきたセンセイ。
本を選ぶ1人1人の横顔には、それぞれが経てきた人生の時間が見えつ隠れつするようでもあり、本そっちのけでそれさえセンセイの目を楽しませるものがあった。
画集を専門に扱う、とある古本屋の露店で足を止めたセンセイは、一冊の分厚い本に目を留める。
背表紙には「これで完璧!日本画の歴史」とある。何をもって完璧と呼ぶのだろうか…。
抗いがたい引力でもはたらいているかのように、自然とその本に手が伸びると、静かにページをめくり始めたセンセイ。
日本における歴史的な名画の数々が収められているのだろう、その一冊を立ち読みしながら「なるほど…」と、何が「なるほど」なのか自分でもわからないまま、そっと口にしてみる。しかし、それでいい。こういう時は、なるほどと言うに限る。
大昔に描かれた、襖絵や屏風絵の図版をパラパラやっていたセンセイだが、通り過ぎたページがふと気になってめくり返してみる。
「なんだろう、この絵…。なにも描かれていないところが多いなぁ」
と、視線の先には江戸時代の絵師、狩野探幽(かのうたんゆう)による襖絵が開かれていた。
他の絵師による作品に比べて、圧倒的に余白の目立つ探幽のそれを見ながらセンセイは「墨、足りなかったのかなぁ…」などと野暮なことを考えた。
しかし、見れば見るほどに目を離せなくなる。「なんていうかこの絵…、いいなぁ…」
センセイは本を開いたまま、釘で打たれたように風景の一点になってしまった。
「時間は限られてるもんね」
ふと、奥さんにそう言ってみたセンセイ。
「そうよ。毎日やらないといけないことはたくさんあるの。無駄にはできないじゃないの」
「そうだね」
「うん。みんなあなたみたいに呑気だったら、きっと世の中が回らなくなっちゃうわ。ふふふ」
奥さんの、まるで子供を諭すような口調であったが、センセイが何も応えなかったのはそのせいではない。
助手席の窓から覗く風景に透かして、センセイは探幽の襖絵のことを目に浮かべていた。
日々の特に何をするでもなく、なんとなく過ごす時間を大切にしているセンセイ。側から見ればそれは時間を無駄にしているようにさえ映るかもしれない。
しかし、センセイにとってはそうではなくむしろ、無くてはならない必要な時間なのだ。
センセイはあの時の野暮な自分に、教えてあげたいと思う。探幽は墨が足りなかったのではない、と。
今のセンセイにはよく分かる。探幽にとっては「描かないこと」もまた、「描くことの1つの形」であり、贅沢な余白は決して紙面の無駄づかいではないことを。その証拠に、探幽の襖絵は美しい。
そして、自分が選び取ってきた今の生き方に、あの日画集を手に「いいなぁ」と感じたそのワケを、見る思いがするのだった。
「あーもう、空いてないじゃないの」
ショッピングモールの出入り口近くの駐車場を、徐行しながら奥さんがつぶやいた。
「向こうはたくさん空いてたよ?」
と、少し離れたほうを指さすと、
「私の話聞いてたかしら?今日はやらないといけないことがたくさんなの。少しでも急がなきゃ」
車を降りて足早に歩く奥さんの背中を、追いかけるセンセイ。近くの海から吹き込む冷たい潮風が、2人の間を通り抜けた。それは、ここ最近触れたどれよりも、冷たい風だった。