僕の絵を「懐かしい」とご感想頂くことにちなんだ文章
まずはじめに、絵にご感想を頂けることって、本当にありがたいことです。
そして、これだけは言わせてください。
「とても嬉しい。だからこそ、とても嬉しいです」
「懐かしい」だなんて、とてもありがたいご感想。
僕も自分がそう感じる芸術作品は、それが詩であれ音楽であれ、映画であれなんであれ大好きだから。
誰かの作品が、鑑賞者の中に懐かしさを映し出すことの不思議。
一概に、こういう理由で懐かしさが発生します〜、みたいな理屈は存在しないだろうし、ケースバイケースなんだろう。
でも、最近読んでいる本の内容と、僕が自分の絵に向き合う態度にリンクするところがあり、それは鑑賞者が感じる「懐かしさ」にも通じていると勝手に思ったので、今日はそういう話をしてみる。
これから記すことは、所詮「あとづけ」の理屈かもしれない。
でも今の僕なりの自分の創作に対する所感の1つとして、長くならない程度にやってみる。
主に具象画について書く。
僕の具象画(風景画)は、スマホで撮った写真を元に描いている。
通勤のときにパシャ。ちょっと出先でパシャ、家でパシャ。と、その時々の思いつきで「現実世界」を写真に収めている。まじテキトー。
そしてこの写真に映る「現実世界」から意味的、説明的な要素を取り払い、純粋な色と形の世界を再構築していく作業を、自分の風景画において試みている。
イメージで言うと、僕らが言葉を覚える前の幼児期に見てた風景を描いている、そんな感じ。
意味的、とか、説明的要素というのは、たとえば、ビル、雲、木、人、その他あらゆる言葉(名称)で呼べるものは全て意味的、説明的な要素。
これを、純粋な色と形の世界に再構築するってことを、僕の作品…、
例えばこの絵について言うと、
この絵を「意味的、説明的」に伝えると
「青いシャツに白い上着を羽織った人が、ソフトクリームを右手に持っている」
ところを描いた絵なんだけど、
一方で、「純粋な色と形」として伝えると
「左右の上に薄緑の歪んだ四角があって、中央に薄黄色の歪んだ四角だか五角だの形がある。そんで、真ん中に変な形の先が尖った白と、左右の広い範囲に歪んだ五角形の白…以下略」
を描いた絵、となる。
同じものについて言ってるんだけど、ニュアンスが全然違うでしょ。
この絵じゃないけど、たとえば「ビル」じゃ無くて、「グレーの四角」とか、
「木」じゃ無くて、「こげ茶の太い線のあちこちに、緑の楕円や扇形」
と、目に見えるモノを捉え直す。
(ちなみに、色や形の名前も意味、説明的な要素なんだけど、文章にする上での便宜上、この記事内では用いています)
そして、この「意味的、説明的な要素の集まり」から「純粋な色と形の集まり」へと風景を捉え直して再構築する営みが、「風景を抽象化する」こと。
ところで
言葉(意味的、説明的要素)とは、世界の混沌から一つ一つの要素を切り分けるナイフである。
それはちょうど、星空に星座を描くようなことで、単に星が散らばっているだけの夜空に星座を結ぶことで、そこに物語(意味、説明)が生まれる。
抽象化とはこの逆で、星座が結ばれた夜空を、単に星が散らばっているだけの夜空に還す営みのことだ。
先に僕が自分の絵を、イメージでだけど
「僕らが言葉を覚える前の幼児期に見てた風景を描いている」
と言ったのはつまり、そういうこと。
かつて、僕たちの誰しもが例外なく見ていた、言葉を覚える前の風景。
それはきっと、言語習得後の風景に比べて普遍性を持つんじゃないだろうか。
なぜって、言葉によって個々の意味づけや説明がまだ、なされていない世界だから。
食べログ見たかどうかで、料理の味変わるでしょ。ミシュラン三つ星って知ってる店だと「うまぁ!」って気になるでしょ。
それがない状態のほうが、料理の味の前にフラットで誰しもがいられる。それと、同じようなこと。
はい、やっぱり話が長くなりました〜。
というわけで、意味的、説明的要素を風景から剥ぎ取って絵にしていくことで、描かれた風景に普遍性が宿る。
それはあなたがかつて見ていた「あの風景」につながる道になり得る。
その役割を僕の絵が担えたとしたら、こんなに嬉しいことはないな、と。
その文脈で「懐かしい」ってご感想頂くことを、嬉しいなぁと僕は思うのです。
いつも、僕の創作を楽しんでくださりありがとうございます。
続けていくことで、恩返しできたらと思っています。
末筆ですが、インスタ↓で具象画を発信してます。よかったら見てみてね。