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源氏物語を読みたい80代母のために 4

さて、あれからやや焦って「須磨」をアップしていたら母から電話。もう「ひかるのきみ 弐」の後半、「紅葉賀」まで来たらしい。これはヤバい。すぐに読み終わってしまうではないか。「参」をアップはしたし紙本も注文済みだけど、ちょい短めなのよね。もう一冊くらいは作れそう……かな、GWに間に合うかどうか……が、頑張ろう。いざとなったら画面で見てもらうってことで。

ここに至り、母も色々と慣れたのか染まったのか、やたらと「平安時代」だの「源氏」だのが目につくようになってきたらしい。ほら、某局で今やってるタイムスリップものドラマとか、雑誌の特集だとか。新しい何かを知って知識の量が増え、ある範囲を超えると一気に奔流となり、未知の世界の扉が開くのだ。そうそう、これなのよ私が「ひかるのきみ」を書いた理由は!(大きく出てみた)

で、件のタイムスリップドラマはかなり荒唐無稽な筋立てなのだが、何しろ私のテキトー源氏を読んでいるため「なるほど…こういうのもアリなのかも」なんて思えるようにもなったという。80代にしてこの柔らかさ、天晴である。「でもね頭が疲れるー。一気に色々入れたんで、頭使いすぎなかんじ?」ってJKか!さすがに年も年なので、血圧上がらないように程々にね。水分取ってる?甘い物とか適度に食べるといいよ。

「お菓子は食べ過ぎなんで、我慢してる」好きだもんね。「ほんでも、蜂蜜はいいかなーと思って、もうなくなりそうだからまた頼もうと思ってたら」蜂蜜って例の?(近所の人間国宝の方が作ってらっしゃる)「ほうや、ほしたら、なんか頭の中に蜜蜂の、女王蜂のイメージがぱーっと浮かんでの。アレって必ず巣の中に一匹で、後は籠りっきりで働き蜂に養われながら子供沢山産むやろ?ああいう感じ、ひかるのきみの世界に似てるなって思って」

ええええええ、そうきたか!これはまた斬新な。長年にわたり多数の源氏ものを読み倒した私がまるで思いつかなかった絵を、母があっさりと描いてみせた。しかもまだまだ前半部分だというのに。

紫式部が生きた時代、貴族社会のトップに君臨するためには女性が必要不可欠だった。政治的な成功を左右する鍵だったのだ。更に女が子を産めば、それが新たな展開の種となる。小さく狭い、閉じられた世界の中心でただ存在することだけで社会を動かすというその図式は、一匹の女王蜂によって成り立つ蜜蜂の巣のそれと、確かによく似ている。さすがは現代の名工、恐るべきイメージ力である。

してみると、作者の紫式部は明らかに「働き蜂」側だ。どう頑張っても「女王蜂」にはなれない。ただ、中心にいて動かない女王蜂は、周囲の世界はもちろん、自分自身の位置すら知ることはない。「源氏物語」は、同じ「巣」の中に囲われていながらも、比較的自由に内外を行き来できる「働き蜂」紫式部だからこそ書けた物語であり、女王蜂にあたる高貴な女性たちの存在と位置を初めて可視化したものだ、ともいえる。

一介の地方役人の娘が書いた小説が、上下を問わず女性たちの人気を博したのも、それまでは皆そこにいながら殆ど自覚していなかった巣の構造……自分たちが属している世界の構造、ひいては自分自身が何者なのか、見る目を開いたからではないだろうか。それが今の今まで、時代を超えて読み継がれ愛され続けている理由のひとつかもしれない。

実際、主人公は光源氏とはいえ、その人物像はどうもブレる。今に至ってもつかめない。多面的に描かれた理想の男、というのはかくも掴みどころがないものなのか。それに対し周りの女性たちは各キャラが立っていてリアルなのよね。自分が女性だからなのかもしれないが、それにしても圧倒的に「源氏」は女性を描いた小説なのだと実感している。

で、今「須磨」を書いてるわけですけれども、遂に女房さんすら一人もいない状況に至りました。一般の宮仕え女性も知らない世界への扉を開きましたね。当時の読者はさぞかしワクワクされたことと思います、私も楽しいもん。

というわけで定期:ご興味があれば是非どぞ→「ひかるのきみ」連載中


つづきます。

「文字として何かを残していくこと」の意味を考えつつ日々書いています。