『ファン・ゴッホのパリの2年間』の続報
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上のアドレスはフェイスブックに新たに創った『ファン・ゴッホのパリの2年間』の小説が読めるグループです。
『ファン・ゴッホのパリの2年間』が完成しましたらどのような形で発表できるかまだ決まっていないので、公開にして誰もが読めるような形にしますと著作権などの問題も出てくると思われますので、興味を持ってくれる人のみ、読めるようにしようと考えています。
読める条件は『ファン・ゴッホのパリの2年間』のグループに入ること、もしくは川上宏のフェイスブックに『ファン・ゴッホのパリの2年間』のことを書いていますのでそこにいいねを押してくれること(いいねを押した人は招待します)。
今はまだ公開設定になっていますが、グループ参加を締め切った5日後くらいかな? 未公開になります。
さて、前回『ファン・ゴッホのパリの2年間』を書くことに関していろいろなことを書きました。
論文ならどうでもよいことでも小説なら違います。
初めに、フィンセントがパリに着いた日にちを問題にし、ルーブルの営業日などもどうなっているのかと疑問を載せました。
これらはネット検索しても答えが見つからず、アマゾンで『ルーブル美術館の歴史』を見つけ、それを注文し、読んでみたらそこに書いてありました。
そして本文でも一口メモとして下のように載せました。
《ルーブル美術館一口メモ・1855年まではルーブル美術館に入るためにはいくつかの条件があった。サロン(国展)出品者であることを示す芸術家の証明書を持っている人、あるいは有名な教師の生徒であることを示す証明書を持っている人だけが、平日にルーブル宮殿とリュクサンブール宮殿のギャラリーに入ることができた。外国人は旅券を提示すれば平日に入館することができた。
民衆が自由に入館できるのは、日曜日だけだった。この制限は1855年にパリ万博が開催された際に廃止された。清掃が行われる月曜日をのぞいて、誰もが毎日ルーブル美術館に入ることができ証明書は美術品を模写する人だけが提示すればよいことになった。
ナポレオン三世の時代からギャラリーの業務が大きく改善された。4月1日から9月30日までは朝の8時から夕方の6時まで
、10月1日から3月31日までは朝の9時から夕方の4時まで美術館に入れるようになった》
日曜日はオープンしていたのです。休みは月曜日でした。
そうなるとフィンセントがパリに着いたのは2月28日の日曜日で間違いなかったですし、3月1日としている研究者は間違っていたことになります(1886年は閏年でもありません)。
研究論文ならそれはほとんど問題ないだろう、と言われればその通りです。
しかし小説なら、これによってフィンセントが発作的にアントワープを発ったのではないと推理できます。
ちゃんといつ行くか決めて発っているのです。
論文ではどうでも良いことですが小説ではそういう細かいところでもフィンセントの性格が出ると思うのです。
つまりよく言われるファン・ゴッホは直情的な性格、と言うわけではないのです。
このルーブルのオープン時間や休み日などは探すのは困難だと思いましたが意外と早く見つかり助かりました。
現在の時点では『フィンセントパリに着く』の章を書き終えたところです(ワード13ページ、400字詰め原稿用紙なら52ページくらい)。
書き終えたと言っても、とりあえずです。
ネット検索でわからないことはアマゾンで本を注文しなければなりません。
このときいつも気になるのが価格です。
貧乏研究家にとって送料を入れて500円以下は無条件で注文しますが1000円だと一応考え、ほとんどの場合は注文します。
しかし、1000円を超えるとかなり悩みますし、2000円を超えるとほとんど諦めます。
今回もデュラン=リュエルが1886年にアメリカに行った月が分からず、本を購入するしかないと思ったのですがデュラン=リュエルのことを書いてある本がアマゾンでは『ならず者たちのギャラリー 』の中の1章しかなく、果たしてそこに書いてあるかも疑問であるし、価格が3300円だし、中古が2170円と出ていたのですが配送料が3800円と言う詐欺に等しい価格だったのです。
殆ど諦めていた時にシスレー関係で検索したら3月にデュラン=リュエルはアメリカに渡っていると見つけました。
これが何で重要なのかというと、デュラン=リュエルがアメリカに行くと印象派の画家を支えられなくなり、印象派の画家たちが新たな画商を見つけなければいけなくなるということなのです。
実際、モネはデュラン=リュエルをあきらめジョルジュ・プティそしてフィンセントの弟のテオと契約することになるのですから。
デュラン=リュエルはアメリカに行き苦労はするのですが、最後は成功し、印象派勝利も確定するのですが、それは4~5年かかっており、その間に印象派の画家たちはデュラン=リュエルを離れ、新たなる売り方を模索していくのです。
それに成功するモネ、ドガ、ルノワールは大家になっていくのですが、シスレーなどは死ぬまで貧困にあえぐのです。
今回『フィンセントパリに着く』編で発見した大きいものはギュスターヴ・モローの水彩画の個展をテオの会社のブッソ・ヴァラドン商会が開いたということです。
正直、ギュスターヴ・モローなんてほとんど知りません。
テオがルドンの絵を扱っていたということくらいは知っていました。
それがフィンセントがパリについてすぐにこの個展が開かれたのですから、小説としては無視はできません。
で、いつものようにアマゾンで注文しました。
これはまだ届いておりませんので読んだら1章を大幅に書き換えるかもしれません。
そして、今回調べていくうちに長い間疑問だったフィンセントが初めて浮世絵に接したのはいつでどこかだということです。
これはジョン・リウォルドの『印象派の歴史』を再読しているときに見つけました。
そこには『すでにヌエネンの両親の家にいたとき「発見」した』と書かれていたのです。
しかし、それは『ファン・ゴッホの手紙』に「君と見た」と書かれてあったので、テオと一緒に小さな日本の版画を見たと読めるし、一緒に見たのなら父の葬式の時のヌエネンだと推理できたし、ヌエネンのような小さな村に浮世絵があるわけはなく、おそらくハーグで手に入れたはずだと私は研究論文でも書いていました。
だから、ここだけなら進展はなかったのですが、そこに注とあり、その注を読むと『ライデンのM・ド・サブロニエール夫人の好意による情報』と出ているのです。
ライデンはハーグの隣町なのでハーグで見つけたという方がやはり信憑性があるのですが、ライデンと言えばレンブラントの生誕地だけではなくあのシーボルトの博物館があるところなのです。
浮世絵を少しでも知っている人は、シーボルトが浮世絵を収集しあの北斎に肉筆画を描いてもらって、それをオランダに持って帰って、それが展示してある、と言うことはご存じだと思います。
となるとフィンセントはライデンに行ったのは間違いないはずですから、シーボルト博物館に入ったのかと言うことです。
検索するとシーボルトハウス(博物館ではなかった)は21世紀にでき、シーボルトの家がそれだというのです。
そして、シーボルトのコレクションはオランダの国立民族学博物館が買い取ったみたいなのです。
1837年まではそのシーボルトの家で日本のコレクションは公開されていたそうなのですが、それ以後が分かりません。
これは小説を書いていくうちに解明ができればよいのですけどね。
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