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ふるさとへの絵手紙 公民館(木炭倉庫)
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木炭倉庫であるが、永年川上の歴史の象徴のような建物で、
炭焼きには欠かせない存在であった。
俵や縄が詰っていて、炭が表にぎっしり並んでいる。
此の倉庫を見れば川上の景況が一目でわかる存在だった。
其の建物も取り壊されて、戦後の自由主義社会となって、公民館(住民の教養と文化を向上させる為に設けた施設)と言うような名の元に建て替えることになった。
勿論国の補助もあるのだが、不足分は村でつくらねばならぬ。
そこで岩ヶ谷の上あたりにあった松の木を売って当てることになって、売られて出来上がったのが此の建物(公民館)である。
当時は立派なものであった。
大工さんは中村区の忠兵衛さんで、
区長は作左エ門さん※であったと思う。
つづく
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このときの区長さんは右門さんだったのでは?という話もあります。
終戦後さして間も無い時分のことです。お酒が高価だったのか経費削減か、かわりに“どぶろく”を作り、それで公民館の落成を祝ったのだとか。
ところがそれが公になってしまい、区長さんが引っ張られて警察だか税務署だかのごやっかいになったそうです。
半世紀すぎた今でこそ笑い話ですが、当時は区内で結構な騒動になったのでは・・・。
この旧公民館も、今の公民館が分校跡に建てられたあと取り壊され、現在その跡は畑になっています。
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出来あがって完成祝いだと言う処で区民からクレームが付いた。
屋根の出、いわゆる庇が少ないと言うことになってもめ始めた。
現代の姉歯問題と同じである。
設計が悪いか、大工が悪いか、監督責任か、色々と揉めた。
全く同じような問題だった、うやむやに終ってしまった。
責任の持って行き場所が無かったのである。
かくて入り口の前側は農業共同組合として購買部が陣取り、
奥は川上の区事務所となり、区長が事務をとるようになった。
二階は大広間で集会所となって発足したのである。
其処で何か記念になることと考えたのが、興業師を連れて来て余興をやろうとなった。
助の義夫さんと、やけ谷の一男さんと、私と三人で催した。
つづく
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漫才、浪曲、手品、其れにユズナ使い等の芸をした。
飯を食べさすのに、カイモ(里芋)の味噌汁を作って出したら
喉が枯れて駄目だと喰わないので作り替えをした。
厄介な奴らだと思った。
圧巻はユズナ使いであった。
机の上に空箱を置いて其の中に石が入ると言うものであった。
石は出て来たのは出て来たが、まやかしだろう。
ユズナは豆狸の孫のようなものだと聞いたが、コックリさんもおなじようなものだと思う。
まあ其んなことで終ったが、皆んなは不思議がっていた。
決算では、赤字にもならなかったが儲けにもならなかった。
何事にも経験だから、役に立ったのはまぎれも無い。
つづく
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公民館もなかなかの好評で、便利なせいもあって、区の集会、婦人会、青年団、一般、若者と、なかなかの盛況であった。
戦後まもなくの話しだが、国の政策か農協の斡旋か知らぬが、産児制限の避妊具売り込みに公民館の二階が使われる、と言うふれこみがあった。
区を通して来ている話しだから、信用はある。
始めは腰をあげなかった御婦人も、恥かしいやら聞きたいやら、遠慮がちだっが、何だか、ごそもそして来て、様子をうかがっていると、あそこの人もこっちの人も二、三人で連れだって行かんしたとなって、
そんなら私もとなって、出かけて見よう となって出かけた。
つづく
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うはあ・・・きとらんす、きとらんす
階段からそっと首を出して見渡したら、何とあごをつき出して見とらんす。
あんな年をとった人まで と思うような人までおらんす。
あら・・あらまあ・・・あの人は未亡人だ、
はあ・・・これはしたり
何時のまにござんしたんやろ、まんなかに堂々と座っとらんす。
恥かしくなえんやろか、うらやったらよう来んは。
どっちがどうだか分からんが、うしろの方に座ったが何時順番が来るやら分からん。
握ぎりめしを持って呉ればよかった、と思い乍ら、人の肩先に顔出して見やしゃった。
明日も行いますから となって、出直す人もあった。
何んせい、女性専用の避妊具だから此処で買うとけば苦労いらずや、
心棒してまっとるや・・・
つづく
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まあ何だかんだと言っている間に自分の番が来た。
落ち着いておちついてと自分にいい聞かせながら囲いの中に入った。
行くには行ったがどなえなるのかと思い乍ら、おそるおそる座わった。
奥さん、そんなに恥かしがらんでも、
誰れも見とれせんから、一寸裾をまくってごらん…
そう言われたものだから、なお固くなった。
でもいつまでもはずかしがっている時でない。
観念してまくってみた。
それ奥さん、此れが其れで、此処をこう持って、
こう言うふうに嵌め込むのだよ。
あら恥ずかしい、呼吸が会わないとずり出る。
何だかんだしているまに納まった。
何んだこんな事ぐらえ と反対に大胆になる。
まあ其の時分の事だから、仕方が無いが。
「なになにサリー」なんてむずかしい名前で言うから、
おどおどしただけや…と 二ダースも買って・・・
つづく
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しゃあしゃあとしながら帰らっしゃったが、帰宅して旦那にお目玉くらった御婦もあったらしいと聞く。
でも、あんた此れ使って見よう と言う事になって、仲直りしたとも聞いた。
てなことで、川上の商売も無事終って、今度は上林村に舞台を移すことになる。
昭和二十二、三年では、夜這いが盛んであったときく。
男ならともかく、歌にも有る通り、上林は女の夜這いである。
其処にそんな話しがいったものだから女性は喜んだ。
そんなええもんがあるのだったら心配無く全う出来る となって首を長うして待ってござったらしい。
さあ、町内会で触れが廻った。
其れ行けとなって、大入りの満員だったと聞く。
本日は札止めと言うぐらい盛況だったらしい。
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絵手紙ではまだ何枚も上林村の続きがありまして、それがこの“公民館編”のクライマックスなのですが、他所のことなのでこの辺で。
“公民館編”最後の絵手紙に書いてあった歌だけご紹介して、おしまいと致します。
“古和木上林や 女の夜這い 昼のさなかに 戸が閉まる”
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