見出し画像

ふるさとへの絵手紙 寺


寺(1)

歓喜寺炎上

川上村には二つの寺があった。
上に歓喜寺、下に清源寺。
両寺共石段をのぼれば、其れぞれ全戸が見渡せるいい場所にあった。

昭和三十五年頃だと思う、夏の盛りだっただろう。
「どおん」、とつ然の大きな音。パチパチと音と煙りと一緒に舞い上った。

ハタガメ※が落ちた、皆がどこだどこだと、さわぎかけた。
大変だ、大変だ、其れ消しに行け。

宮垣の橋のあたりまで走っていったら、もう火の柱だった。
やっさえもんの家にはもう近よれない、野瀬も危い。

そら水だ水だ、やんじょもんの池から水を運んだ。
もう其の時にはお寺に火が移っていた。

上側にある彦兵衛さんにも火が廻りかけていた。
でも皆んなの働きで助かった。

歓喜寺炎上。

つづく

H17.9.17 善琢


※ハタガメ:この辺りでは雷のことを当時こう呼んでいた(京都府北部の方言だそうです)

歓喜寺炎上と歓喜・清源両寺合併のエピソード


昭和三十五年(一九六〇)七月二十三日夕景、歓喜寺下の民家に落雷。当時清源寺は住職の宗隆和尚が退山して無住となり、川上では、歓喜、清源両寺の合併が問題となっていて、部内和尚の最後の調停日がまさにその日であった。それまで合併は不可能と思われていたが、当日の落雷により歓喜寺は類焼を受け全焼。一粒の雨も降らない天候での落雷により、急転直下の解決をみるに至った。その後歓喜寺住職、山田策秀和尚が清源寺に移り合寺。九月、当時の大津櫪堂相国寺派管長が妙智山善應寺と命名。翌年一月、合併登記が完了した。

(大本山相国寺・相国会本部発行 園明 平成二十年正月号より抜粋)



寺(2)

梵鐘出征

世間は様々、何が起こるかわからない。
幸も不幸も紙一重、うんもふんも一字ちがい。
誰が得して、誰が損するかは分からない。

まあ其れは其れとして、此の鐘は清源寺と共に生きて来た梵鐘である。
雨風をとわず、毎日、時をしらせて呉れた、有難い仏の使いであった。

が、其れが運命のいたずらか、昭和拾七年拾壱月拾六日、
戦争の犠牲と云うか、献納される羽目になったのである。

憂き目と云うか、大変な事になった。吊り鐘が出征する。

事の重大さは分からないが、馴染んで来た梵鐘で、生活に欠かせなかった宝。

ゴーン、ワンワン・・・ワァン・・・ワ・・・ン

つづく

H17.9.24 善琢


寺(3)

昭和十七年十一月十一日、清源寺梵鐘堂前にて大壮行会が行われた。
佐分利谷中のお匠が勢揃いをして、盛大なるもので有った。

其の後、大安吉日を選び、下に運び出されたのである。
出征兵士を送り出す如く、歓喜で有り、荘厳で有り、
悲愴で有り、ひっしであった。

木馬の先手、舵取りに挻子やさん、後手の綱とり、皆一生懸命だった。
それそれ、よいしょ、まるでお祭りだった。

石山の役場の広場に集められて、其ののち何処かに運ばれたとの事であったが・・・。
大砲の弾丸と成ったのか、軍艦となったのかは不明である、が
噂によると、戦場までゆかず、どこかの濱辺に積んであったとの事をきいた。

つづく

H19.9.25 善琢


寺(4)

哀れにも、主(鐘)を失くした鐘楼は、山嵐しの通り抜けとなり
お匠の唱へる経も、風と共に侘しく消へる。

夢にも思わなかった事が起こり、失意落胆、の筈だが戦時中の事、
為す術の無く、諦めるより仕方が無い。
お国の為になって呉れと、只経を唱へるのみ。

幸か不幸か日はめぐる。
戦争も終結して平穏となり、村も蘇る。

其処へ思いもよらぬ嬉しい便りが届いた。
ある篤志家より、鐘が寄贈されるとの事であった。

村人たちは天にも昇る心地で湧きあがった。
そして元の姿にかへった。

除幕され、最初に撞かれたのが宗隆お匠だったと思う。
読経もながながとつづいて、村の隅々まで伝わり有難うと、手を合わして頭を下げた。

寄贈者名は又の機会に。

H17.9.26 善琢

鐘の寄贈を祝う村人たち(清源寺鐘楼前にて)

元記事の投稿日時 2009年5月20日 (水) 01:10