御多福珈琲(京都・河原町)
京都の冬は堪える。計8年間過ごした関東の片田舎も朝晩はかなり冷えたが、基本が車生活だったので気にならなかった。この街に越してきて、駐車場もあまりないし小回りが利かないからと車を手放したことを、今になり後悔しはじめている。
遅い冬支度のために立ち寄った藤井大丸から出たその時、後ろから声をかけられた。
「サトル先生!買い物ですか?」
振り返ると、そこにいたのは桃香だった。
「私も買い物終わったとこなんですよ。よければお茶でもしません?」
突然のエンカウントに驚く間もなく、近くの喫茶店に連れられる。本当は、貴重な休みを彼女と過ごすことで失いたくないと思っているはずなのだが、いつもなぜか乗せられてしまう。
「京都、狭いから。街歩いてたら誰かに会っちゃうって、よくありますよね。後ろ姿がサトル先生に似てるなと思って見てたらやっぱそやった。休みの日に会えて嬉しいわあ」
「サトル先生、甘いもん好きですよね?ここ、甘いのんも美味しいですよ。食べましょ」
桃香ら看護師たちがたまに差し入れてくれるお菓子を欠かさず食べていたのを見られていたのだろうか。実際甘いものは好きだ。予備校時代からは、頭を使うからなのだろうか、毎日コンビニで何か買わないと気が済まなくなった。ただ、30を目前にして、それだと体型に響くので、時間ができたらジムに通うことを心掛けている。
かぼちゃケーキと、チャイが届く。少し外に出るだけでも凍えた身体にシナモンが染み渡ったのがわかった。
「明日あたり、雪降るらしいですよ。私は雪国出身やし慣れてるけど、先生、初めての冬やもんなあ。京都の冬、結構きついですよ。こうも寒いと、一人暮らしも堪えますねえ。クリスマスも年越しもあるし。まあ私は夜勤入っちゃいましたけど。みんなが嫌がるから。こういう時独りもんは損やわあ。逆に寒い部屋で一人ってのもきついし、ええんですけどね」
桃香のアピールにも、そろそろ慣れてきた。二人でどこか店に入って、というのは三度目だが、病棟内で顔を合わすたびに意味ありげな言葉をかけてくる。本当は、はっきりと何か言ってしまわなければならないのだろうが、好きですと言われたわけでも、関係を迫られたわけでもないので、その何かがわからない。職場内での人間関係を壊したくないという思いが勝って、こうして彼女に付き合っているだけだ、と自分の対応に言い訳をする。
「先生は、まだ良い人いないんですかぁ。まあ、あんま変なのに引っかかんないでくださいよ。私、嫌やからね」
甘えた声でそう続ける彼女に、レミのことを言ってしまおうかと考える。優柔不断な態度を取り続ける自分が、彼女を助長させてしまっているのだ。
「実は、ちょっと良いなって思ってる人がいて。だからその、あんまりそっちの期待に応えられないかもだけど。ごめん」
フォークに残った最後の一口のケーキを置いて伝える。
「え。そんな。誰からも聞いたことないわ。病院の人?そこらで出会ったようなよう知らん女やったら…」
「病院の人ではないし、今、病院の人に初めてこの話をした。とにかく、今はその人がいるから、他の人とってあまり考えられない。気持ちは嬉しいけどごめんね」
戸惑う桃香に被せるように言い放つ。別にはっきりと告白をされたわけではないが、その先を求められたくない。それならば、早く言ってしまおうと、考えるより先に口が動いた。
正直、桃香のことはタイプではないものの、可愛いとは思うし、仕事ぶりも熱心で尊敬できる女性だと考えている。でも、だからこそ、レミとの間で揺れ動きたくないのだ。
桃香は一瞬残念そうな顔をしたが、再び目の前のパンナコッタを美味しそうに食べ始めた。
「先生のも一口もらってええ?あ、もうなくなっちゃいましたね」
あどけない笑顔と、その下のニットから盛り上がる胸を見て、同僚たちならば、惜しいことをしたと言うのだろうなと思った。手に職があり、良く働き、こちらの仕事にも理解があり、それでいて女性らしい彼女は、黙っていれば”理想の奥さん”なのかもしれない。自分も、最初は苦手なタイプだな、と思っていたが、その働く姿勢に徐々に印象が変わってきたのは事実だ。そして、いくら好みではないとはいえ、一般的に男好きする桃香のような女に来られると悪い気はしない。
もう、これで桃香がどこかへ誘ってきたり、何かを試してくることはないだろう。安堵とともに、一抹の寂しさが胸をかすむ。けれど、今日の自分の言動は正しかったのだと言い聞かせ、再び口をつけた舌を火傷するほど熱かったチャイは、とっくの前に冷めていた。
お店情報
御多福珈琲
京都・河原町
珈琲店
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