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ごはんや 蜃気楼(京都・宮川町)

つい先日、長年付き合った男と別れたばかりだと言うのに、私はこんなに軽い女だったのだろうか。今私はビールを飲みながら、前菜に頼んだ、鴨と生麩の和え物をつまんでいる。5つも年下の男と2人でだ。

既に結婚や出産といった人生の一大イベントを終えた友人たちが知ったら何と思うだろうか。年収も1000万近くあり、年齢も自分に合った結婚向きの物件の次に行くのが、つい先日まで学生だった少年だなんて。

あの夜、彼からLINEが来て、思いのほか盛り上がってついつい乗せられてしまった。若いからだろうか。彼からの連絡はマメだった。俊介は、付き合いたての当時ですら1日1通のやりとりがあれば良い方で、男なんて皆そんなものだと思っていた。

「愛佳さん。次、日本酒行きませんか?どれが良いとかあります?京都、来たばかりで地酒と言われても全然わからなくて」
「この蒼空ってやつが美味しいよ。とりあえず、1合もらう?」
ふと、目の前の男の顔を見る。整っているな、と思う。もう少し、髪型やファッションを工夫すれば垢抜けるのに。自分と同郷の田舎から出てきたばかりと聞いていたので、仕方ないと言えばそれまでなのだが、どうしても完成された昔の男と比べてしまう。

だしまき、生麩の揚げ出し、いかにも京都らしい料理がテーブルに並ぶ。コロナ禍の影響を受けて2年前に閉店してしまったが、俊介と出会ったバイト先である三条烏丸のカフェも、こんな感じの内装だったなと思い返す。他の男が目の前にいるのに、終わった相手のことを思い出すのは失礼なのだろうか。5年も続いた失恋の痛手は、当分癒えそうにない。何かが変わるかもと思って、のこのこと誘いに乗ったのが間違いだったのだろうか。

「あ、自分の食べたいものばかりすみません。まだ来て数か月だから、観光客気分が抜けきらなくて」
「全然良いよ。私も昔はそうだったよ。私がバイトしていたところも、こんな感じの町家だったのよね。懐かしいわ」
「そうか。愛佳さんは大学から京都ですもんね。色々教えてください」
「あ、サラダとかいります?この翡翠茄子ってなんですか?」
「私も知らないわ。頼んでみようか」
年齢の違いは5歳であるが、もっと大きな隔たりを感じてしまう。無理もない。現役ストレートで学部を4年で卒業し、もう社会人8年目になる私と、新卒の彼では随分と違うのは当たり前だ。さらに、大学生活をどこで過ごしたかというのも大きいのだろう。

色んな意味で、彼からすると結構なお姉さんである私も知らなかったその不思議な茄子のサラダが運ばれてくる。
「あ、私これ好き。めっちゃトロトロしてる」
「本当だ。どこの茄子なんでしょうね」
といって、彼はテーブルに置いていたiPhoneを持ち上げ、検索を始める。私だったら、食事の最中にそこまでは調べないかもしれない。さすが、大学院まで行っているだけあって、勉強熱心だなと感心する。

少しなまりのある標準語は、耳慣れたもので気持ちが良い。まだ知り合ったばかりの私に対し、何の警戒もなく自分の話を次々としてくる彼の魂胆は何なのだろう。お代わりした蒼空が回ってきて、自分が日本酒に弱かったことを思い出す。
「少し酔ったかも。何か締め頼もうか」

運ばれてきた親子丼は、見たことのないヴィジュアルだった。鶏を卵でとじているのではなく、ふわふわな卵がかけられている。この街に長く住んで、色々知ったつもりでいても、まだいわばありきたりとも言える町家風の居酒屋で、新しい発見がどんどんできるという事実に、喜びと共に情けなさを覚える。

店や料理だけでなく、男も同じなのだろうか。同郷出身の若者なんて、少し前だったら小馬鹿にする対象でしかなかった。私は何のために、地元を捨てて、東京も超えて、見知らぬこの街に来たのか。

22時。3時間ばかりの食事を終えて店を出る。全額払ってくれた彼に対し、割り勘分の5千円札を渡す。
「そんな。お誘いしたのは僕だから良いのに」と言う彼に対し、
「お姉さんにも格好つけさせて」と返す。
公務員の給料は、そんなによいものでもないのに。

夏の夜の風が、蒸し暑くも心地よい。
「京都って、夜でも暑いんですね」
伸びをする彼の長い腕を眺める。細すぎる身体はどこか頼りない。
「もう一軒」と言いかける彼に、「帰り道はどっち?」と遮る。

楽しくないことはなかった。若い頃の自分であれば、彼みたいな男を良いな、と思っただろう。けれど、私はもういい大人で、彼は青春時代がまだ残された若者だ。1回の食事くらいで終わらせて、「えらい若い子と飲んだんだよ」、と飲み会のネタ話くらいに昇華させるのが丁度よいかもしれない。私は、団栗橋の前で、「じゃあね」と手を振り、1人飲み直しに向かった。

ごはんや蜃気楼
京都・宮川町
和食
蜃氣楼 - 清水五条/割烹・小料理 | 食べログ (tabelog.com)

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