島之内フジマル醸造所(大阪・松屋町)
どんなに恋をしても月曜日が来る、という当たり前のことを、私はこれまで知らなかった。この年になって可笑しいだろうか。京都で初詣をしたあの日から、サトルのことが一段と頭から離れなくなった。忙しい彼とは、毎週末会えるわけでもない。そもそも、付き合ってもいない間柄で、お互いの休みを毎回分かち合うなんてできるわけがない。
あの時話しかけてきた若い女は誰だったのだろう?小柄で可愛らしく、自分とは正反対なタイプだ。きっと、勤務先の看護師や事務職員なのだろうと思うが、自分を見る視線が気になった。気にしすぎかもしれないが、サトルとあの子の間には、何かがあるような気がしてならない。とはいえ、何度も脳内で繰り返すが、サトルと私はたまに遊ぶだけの赤の他人に過ぎない。彼のプライベートを把握しつくせる立場ではないし、わざわざ聞くなんて以ての外だ。
そんなことを考えながら、以前とは比べ物にならないほどアポもタスクも減った今週のスケジュールを眺めていると、LINEの通知が鳴った。
「今週、また大阪に行くし、週末空いてたらご飯でも」
タクミからの誘いだった。この頃、タクミが来阪する頻度が増えている気がする。先週から緊急事態宣言も出たというのに不思議ではあるが、サトルとの予定がない週末を、何かで埋めたかった。少し置いて、「土曜日ならば」と返す。
「店閉まるのも早いし少し早めから」と言われ、17時に島之内のその店に着く。ここは、仕事でもプライベートでも何度か来たことがある。別店の方では一時期テイクアウトもやっていてお世話になった。私を見るや否や、「今年もよろしくな」と肩を叩くタクミは、私が最初で最後の恋をしていた10年前と何ら変わらない。タクミとこうして今でも会えるのは、あの時二人の間で何の口約束もなかった、いや、出来なかったからだと思うと笑えてくる。
変わったのは、ここ数年会うたびに思うが、女の扱いに長けてスマートになったこと位だ。かつて遊んだだけの相手である私にさえその態度は揺るがない。「コースで予約しといたから」なんて言葉を聞くたびにむず痒くなる。安居酒屋から狭いアパートの梯子をしていた京都時代とは全く違う。
ここは、ワイナリーが運営しているレストランで、もちろんその種類も豊富だ。大阪がその昔一大ワインの産地だったなんて、今の仕事を始めるまで知らなかった。地元産のワインの2本目を開けながら白子のパイ包みを味わっていたところで、タクミが切り出す。
「それで、考えてくれた?うちに来ること」
前回会った時に言われた誘いについて、ただの冗談だと受け流していたが、そうでもないらしい。
「レミが来てくれると思って、新しい面接も断ってるんやけど。俺やって知ってるやつのがやりやすいやん?結局仕事出来ても合わんかったら無理やし。お前とは、この通り長年の付き合いやん。うまくやれると思うんやけどな俺たち」
松本やヒロキの言葉を思い出す。確かに、もしかすると何か変わるべきなのは今なのかもしれない。時代が変わってしまった以上、自分が変わることを恐れてなどいられない。しかし、親しんだこの仕事で、細いかもしれないがどこかにつながっている光を見ていたい気がするし、サトルのことも脳裏に過る。関西で職を変えるのであれば、後者は関係ないかもしれないが、東京に行くというならば別だ。私とサトルは付き合っていない。だから、遠距離恋愛と言うものがそもそも生まれない。そして、元々違う世界の住人で、同じコミュニティなど全くない。それはつまり、二度と会えなくなることを意味している。さり気なく帰省の折に誘ってみることもできるかもしれない。しかし、若いサトルには未来があり、私がここを離れてしまったのならば尚更こんな関係にいつまでも付き合わせておくわけにはいかない。
「急がないとは言ったけど、できるなら四月までには来てほしい。今の仕事の整理もあると思うし、あんま強くは言えんのやけど」
「でも、前も言ったけど、30過ぎて一人で上京するってめちゃ不安やん。タクミさんは若い時からだったしあんまわからんかもやけど」
本当は、上京することくらい何ともない。私だって、その道を今まで考えたことがないわけではない。好きな関西を離れるのは寂しいが、そのうちリニアだって通るだろう。今だって、新幹線なら2時間半だ。
「不安なら、とりあえずうち来たらええやん。あ、仕事だけやなくて住むとこも。うち、今一部屋空いてるし、お前一人くらい受け入れる余裕はあるんやけど」
いきなりの誘いへの驚きに、白子の濃厚さが霞む。自分に、そこまでして引き抜きたいと思われるようなビジネスマンとしての魅力があるとは思えない。じゃあどうして?家に来ても良いというのは何なのだろう。10年前、タクミが上京する少し前に懇願した過去を思い出す。他に何人相手がいてもいいから彼女にしてほしい。私のことも東京に連れて行ってほしい。そのためだったら何だってする、確かそんなことを言ったはずだ。タクミの返事はもちろんノーで、しかし不思議なことに縁はずっと続いている。今でもたまに寝ることはあるが、お互いあの時のことは若かった私の気の迷いだと思って触れないようにしていた。「付き合ってもうたら別れが来る。だから付き合わないでおこう」と言うタクミの別れ台詞に、何も喉を通らなくなり、2週間で5キロ痩せた。ただ、今になるとそれが本当だったことがわかる。それから10年経った30代の私は、「ちょっと考えさせて。会社の人らからもいろいろ言われてるし、考えてはみる。考えてはみるだけやけど」と、曖昧な返事をした。
分厚い肉と赤ワインがよく合う。大人になったからなのか、突然のことに心がかき乱されても、美味しいものが喉を通らないなんてことはない。タクミは言いたいことだけ言うと、目の前のアルコールと食事に集中し始めた。大人になると、皆切り替えが早くなる。
締めのペンネをつまみながら、タクミが言う。
「外出自粛しろだとか、県をまたいでの移動はやめなさいだとか、こんだけ言われてるのにお前を口説くために大阪までくる俺も可笑しいよな。昔振った相手に何やってるんやろと思うわ。けど、今だからなんかもしれんな。良い返事、期待してんで」
ここのところ断り続けていたからなのか、今日のタクミは後の予定に誘ってこなかった。方向が逆だから、と店の前で解散する。私は、堺筋までのそう遠くない道のりを、その昔、彼に似合う女になりたくて奮発して買ったシンプルなウールのコートの襟を立て、颯爽と歩いた。
お店情報
島之内フジマル醸造所
大阪・松屋町
イタリアン、ワインバー
島之内フジマル醸造所 - 松屋町/イタリアン/ネット予約可 | 食べログ (tabelog.com)