映画うたのはじまり コロナ禍を経て
初めまして。映像作家の河合宏樹と申します。
主に、ドキュメンタリーやライブ映像を中心に映像作品を作って生活していたのですが、ここ数か月、コロナ禍において仕事がほとんどなくなってしまったので、突如、文章でも、と書いてみたくなって、noteをはじめてみました。乱筆でしたらすみません。でも、こうした状況下で、改めて自分が映像に向き合う意味を、問う必要がある、と思い書き出しました。
2020年2月22日に、写真家・齋藤陽道さんのドキュメンタリー映画「うたのはじまり」は渋谷・イメージフォーラムを皮切りに公開されました。私は監督を務めさせていただいています。
初日舞台挨拶の時点から、見えないウィルスのただならぬ不安感は既に劇場に、出演者に、お客様にもありました。その見えないものは、作品から、劇場から、人々を離していきました。事実、想定していた集客にかなりのダメージを与えていきました。
そして、間も無く、3月25日に非常事態宣言が発令されて以降、決定していた上映映画館は続々と休館に追い込まれてしまいました。
私も舞台挨拶や予定していたイベントを全て中止せざるおえなくなってしまいました。
正直、上映直前まで全く想像していない状況になってしまい、改善対応策も、劇場に人を呼び込むことも、倫理的に不可能な状況に陥り、呆然としてしまいました。
こんなにもドン被るなんて。自分の不運を嘆いたり、関わってくださっているスタッフや出演者に申し訳が立たないと自分を責めることもありました。
でも、無力な時間がすぎていくうち、オンライン会話などで、自分の尊敬する作家や、仕事仲間が、そして、映画館が、同じく生死に関わるほどのダメージを受けていることを知り、意識が少しづつ変わりました。今作の出演者の七尾旅人さんが「この作品は長いこと見られる、強い必然性を持った作品だから大丈夫だよ」と言ってくださったのも記憶にあります。彼からは、コロナ 対策の配信イベントにも呼んでいただきました。
●七尾旅人 - 対コロナ支援コラボ配信『LIFE HOUSE』vol.1 ゲスト:齋藤陽道、河合宏樹
https://www.youtube.com/watch?v=EdRoTDN9F3c&t=22s
なんとか作品や自分の生活を取り戻すために、考えてきました。
その一つの方法として、6月15日から参加することになった「仮設の映画館」があります。
https://utanohajimari.com/kasetsu/
初のオンライン上映に踏み切ることにしました。コロナ禍で劇場に足を運ぶのが怖くて見れなかった人や、身体的事情を抱えたり、子供のお世話で家を出られない人にも作品が広げられたらと思いました。
また、このシステムは、支援したい映画館を選択することで、配給と映画館に5:5で収入が分担されます。お客さまが作品や映画館を支援することにも繋がるのです。
オンライン上映には正直まだ恐れはあります。それは僕は映画館の可能性を信じているからもありますが、、ですが、今回の決定にはこのようなコンセプトに圧倒的に同意したからです。オンライン上映の動向も配給宣伝の知り合いの大澤さんにアドバイスをいただき、実現しました。
今、この文章を書いているのは、この後、その仮設の映画館のオンライントーク、が実施される1時間前です。
みなさんぜひ、仮設の映画館で見てくだい。「うたのはじまり」を。
オンライントークは無料です。下記を参考にしてください。
●「うたのはじまり」オンライン舞台挨拶
YouTube Live 2020年6月16日(火)20:00~
<出演者> 齋藤陽道 / 小指 / 河合宏樹 (アーカイブあります)
●「うたのはじまり」オンライン舞台挨拶
YouTube Live 2020年6月18日(木)20:00~
<出演者> 齋藤陽道 / 園子温 / 河合宏樹 (アーカイブあります)
もうそろそろ配信準備時間が迫っているので、また続きは今度かきますね。
それまでにはぜひ本作を見て欲しいです。
あ、、あとは、、劇場に脚を運べない皆さんにも作品に興味を持ってもらう為に、劇場で販売しているパンフレットから、私のうたのはじまり制作日誌を公開しようと思います。
ぜひ読んでみてください。また書きます。
●うたのはじまり制作日誌 河合宏樹
2014年1月18日、年が明けたばかりの冷たい空気と、白に近い、色の薄い空の雰囲気を覚えている。当時住んでいたマンションから徒歩五分の富士見丘教会で、その公演は行われた。
聖歌隊・CANTUSのコンサートを飴屋法水さんが演出し、齋藤陽道さん、くるみさん、CANTUSのリーダー・太田美帆さんのお母さまが出演した1日限りのスペシャルな公演だった。
私は、当時から、飴屋さんが関わる公演を追っかけのように映像撮影させて頂いていた。
この日がきっかけで、私は齋藤陽道さんをはじめて知ることとなったのである。
写真家、とも、ろう者、とも知らずに、私は彼の顔を見た。イケメンだ。
その程度の情報の中、公演中の飴屋さん、CANTUSとの数々のやりとりに、衝撃と隠せない心の動揺を感じたことも思い出せる。そして、ろう者と聖歌の組み合わせに、何度も内容を反芻しては考えあぐねたことも覚えている。
数年後、私は彼と、その当時、たまたま”宮澤賢治”に関するテーマを持った作品を同時に制作していた関係で連絡を取り合うようになった。
彼からのメールに”根底で何か通じ合うような気がして…”と直感的な言葉をもらった記憶がある。
東日本大震災後、何かできることはないのだろうか?と立ち向かう表現者を私はカメラでがむしゃらに追いかけていた。映像表現をする一人の作家として、自らにも同じ使命感を背負わせ、押し寄せる巨大な現実に向き合うために必死だった。
そんな日々の中で、共にカメラマンとして、震災後の日々を格闘する齋藤さんの存在は、私に勇気を与え、大きな存在となっていた。
彼の活動を見ていると、あの出会いの教会で、演出の飴屋さんやCANTUSのメンバーが、なぜ彼に魅かれて、出演をオファーし、なにがやりたかったのか、私なりの解釈ではあるが、なんとなく掴めたような気がした。今振り返っても、あの日に飴屋さんが掲げたテーマや時間は私にとって忘れられない出発点だった。
そんなとある日、私がその当時から活動を追いかけていた表現者の一人、七尾旅人さんが地元の高知でライブを行った際の打ち上げに、齋藤さん、奥さんの盛山麻奈美さんが同席されたのだ。彼らはたまたま高知での滞在制作の途中だった。
その時の2人の手話による会話が、ダンスのように美しく、一目で魅了されてしまった。
その瞬間から、2人を撮りたい、と私は考え出したのだ。
麻奈美さんのお腹には既に新しい命が宿っていたので、よく思えば、3人と出会った日でもあった。縁だと思った。
出産シーンを撮らせてほしいと麻奈美さんにお願いしたのは、その直後だ。
彼らが国立のバザーでかき氷屋を出店していた時に、打診した。即答、OKだった。
2017年10月24日、朝5時くらいに齋藤さんから「産まれそう」とLINEが届き、
奇跡的に携帯のバイブ一音で起きることができて、下北沢から国立までタクシーで飛んでいった。麻奈美さんの出産に立ち会えたとき、子供の産声を目の前にして、齋藤さんから「なんて言ってるの?」と聞かれたとき、どう答えていいかわからなかったのだった。自分自身に「うたってなんだろう」と自答し、自分に新しいテーマらしきものが芽生えた瞬間だったような気がする。
それから、息子の樹(いつき)の成長とともに、彼らの育児、活動の大事な時に同行した。
自答したテーマに少しでも近づく事ができるかもしれない、と感じたからだ。
家族のように扱ってくれる皆に、愛情を感じつつ、そのときはまだ、さっぱり映画になるとは思っておらず、彼らの目線と共にカメラを回していた。
撮影を始めて、1年くらい時間が経過した頃だろうか。齋藤さんに子守歌が生まれる。
それは、聴者の樹の為に生まれたものだ。聞いた瞬間、齋藤さんに確実に変化が起きたことを
直感した。これはすごい瞬間に立ち会っている、とも。
以前、「らくだの涙」という映画の中で、モンゴルの遊牧民族が馬頭琴を使い、
子ラクダを認識しない親ラクダの関係を修復させる、という映画の話を聞いていた。
まさにこれだ。と思った。
そうした事実を、私も齋藤さんも信頼する七尾旅人さんに伝えたところ、”ぜひ会いたい”と再会が実現し、齋藤さんが”うた”の本質を射抜いてしまっている現実を、皆で確かめ、共有することができた。至福の時間だった。
その後、テーマが明確に絞り出されたと考えた私は、作品化するために編集を始めた。
しかし、編集は難航した。
まとめてみると、このテーマは何より、齋藤さん本人はもちろん、誰しもが抱える永遠のテーマということに気が付いたのだ。そんな大きなテーマを、90分程度の映画として、一つの作品として区切る。そうした決断が私にはできなかった。
苦悩の果て、1年程、この素材に向き合えず荒れた日々を過ごしていた。
当時、二足の草鞋で、働いていた仕事も辞めてしまった。
そうした自分自身の人生のタームや、作品として完成させられないジレンマを抱え、どうしていいか路頭に迷ってしまったとき、ようやく齋藤さんの顔が浮かんだ。
悩みを聞いてもらおう。そして、齋藤さんの経験も聞きたい。
そんな気持ちで、齋藤さんに正式にインタビューを試みようと考えた。
私が彼と過ごして成長してきた時間をもっと大事なものにするために、彼の人生の苦悩やこれからの不安を聞き、共感したい、と純粋に思えたからだ。
大切な友達と、自分の悩みを共有するかのように。
その時に彼から聞くことができた、未来の息子への言葉に私は感嘆し、ひとつの答えを導けたという手ごたえを感じた。ようやく映画になる確信が持てたのだ。
今作のプロデューサーであるスペースシャワーフィルムの高根順次さんが声をかけてくださったのもその時期だ。ようやく完成が見えた。
こうした偶然なタイミングと縁が、この作品を世に生み出す結果になったこと、心から幸運に思う。また、教会公演からこの映画の道のりを築いてくださった皆様に本当に感謝している。
最後に一言、この”うた”を巡る旅は実はまったく終わっていないということ。
齋藤陽道さんにとってはもちろん、監督の私もだ。
これからもライフワークとしてきっと悩み続けるし、
子供たちの成長と共に彼らの新たなフェーズと巡り合うだろうと思っている。
そのときにはまたカメラを向ける準備が私にはできている。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?