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 #044 人間の絆 下巻(モーム著)のアセルニーについて語る

人間の絆 下巻(金原瑞人訳)の感想です!

帯に書いてあった通り「最後の方はページをめくるのが惜しくなる」感覚が確かにありました。最後の方は、まだまだ読みたいフィリップの生活に対して残りのページが少なすぎたために「あれ、どこまで描いてくれるんだろう」という焦りもありました。さらに続編があれば良いのに・・・。

ちなみに上巻の感想はこちらです。

下巻は、一言でいうと「ミスタ・アセルニーが英雄すぎる」でした。ミスタ・アセルニーのような人物になりたいとただひたすら思いました。




※ここからはかなりネタバレを含みますので、ご注意ください



下巻の大まかなあらすじの紹介


人間の絆の後半は、恋愛のこじれから入ります。フィリップが一方的に愛した女性ミルドレッドは、他の男と結婚することになったのです。絶望の中、フィリップはノラという女性と出会いました。ノラはミルドレッドと違って快活でユーモアのセンスもあり、なんでも話し合える関係でした。2人は理想的な関係でした。読んでいてほっこりする流れでした。

ずっとノラと関係が続けば安心だと思っていました。フィリップはノラと会いつつ医学の勉強にも専念しました。

そんな時、ミルドレッドと街でばったり再開して状況が一変します。ここだけでも映画になりそうな場面です。実際、映画にもなっていたようです。

思い返しながらあらすじを書いてみると、大胆な展開でびっくりします。ここまでの展開はあまりにも悲劇的で、読むのが辛かったです。ミルドレッドは、フィリップを無下に捨てて結婚した相手と楽しく暮らしていましたが、ミルドレッドが妊娠するや否や捨てられてしまうのです。なんと、ミルドレッドが結婚しようとした相手は既婚者だったのです。

「そんなミルドレッド、ほっといたらいいじゃん!!」とずっと思いました。誰しも思ったに違いありません。

ノラとの関係は温和、平穏で生活も困窮しておらず、万事順調に思えたからです。対してミルドレッドは表情もつかみどころも無く、しかも他人の子供を身籠もっており生活にも困窮しています。フィリップも学生身分で大金持ちではありません。ミルドレッド+子供の面倒はどう考えてもみることができないでしょう

しかし、そんなミルドレッドに対してもフィリップは愛が再燃し、部屋を借りて出産の面倒を見て、食事も与えて一緒の生活が始まります。ノラのこともこっぴどく一方的に振ります。この部分は読んでいて非常に辛かったです。ノラは何にも悪くなかったですから。

ミルドレッドと付き合うと、案の定また不穏な事態となります。

戻ってきてくれたミルドレッドと一緒にいることが嬉しくて、フィリップは大親友グリフィススにミルドレッドとの幸せな日々のことをなん度も話します。グリフィススは同じ建物に住む医学生です。自分がいかに幸せかどうかを飽きることなく伝えます。

そんな折、フィリップはグリフィススをミルドレッドとの食事に招待します。3人で食事をすることにしたのです。

事件はここから始まります。

なんと、ミルドレッドはフィリップの親友グリフィススに惚れてしまうのです。もう、どうしようもないですね。ミルドレッド。

フィリップは、ミルドレッドにまた裏切られます。しかも今回は大親友にも裏切られる形となるので、精神的大ダメージを負います。ついに自殺するかどうかまで悩みます。ここでフィリップは懲りたのか、完全にミルドレッドに対する愛はなくなり、物語は方向性が変わります。

フィリップは、ミルドレッドのことは忘れて医学の道に再び専念します。普通に勉強し、内科や外科の実習生となり、カリキュラムを着実に進めていきます。患者とのコミュニケーションは得意で、偉ぶらないところが気に入られ、その後人気を博します。

フィリップは両親から遺産を受け継いでいるもの、医学生としての学費や生活費が嵩み始め、酒場で出会ったマカリスターに投資の話を持ちかけられた時は、乗ることにしました。最初は30ポンドほど利益を出すことができたので、非常に助かっていました。しかし、戦争による不況で株価が大暴落して財産のほとんどを失ってしまいます。500-600ポンドほどあった資産はたった7ポンドほどとなり、家賃生活費を考えると2週間しか生活できないことがわかりました。

当時、叔父さんは年収が300ポンドで2人を養っていたと書いてあるので、大雑把に1ポンドは2万円くらいと考えて差し支えないでしょう。

フィリップは1000万円近くを失い、10万円程度しか残らなかったのです。これは結構な悲劇でしょう。フィリップは医学の勉強を辞めざるを得ません。

とまあこんな感じで下巻は続きます。あんまり全部あらすじを描いても面白くないのでここまでにします。


印象に残ったシーン

ミスター・アセルニーの救済シーン

まさに、読みながら泣いたシーンです。「人間の絆」を1番感じたのはこのシーンでした。

そのうち食事が終わり、サリーがやってきて食器を片付けた。
「安葉巻ですが、一本どうです」
アセルニーはそう言って葉巻を差し出した。
フィリップは受け取り、美味しそうに吸った。驚くほど気持ちが落ち着いた。サリーが食器を片付け終わると、アセルニーはドアを閉めるようにと言った。
「さあ、これで邪魔者はいなくなりました」アセルニーはフィリップの方を見た。
「ベティには、私が声をかけるまで子供達を仲に入れないように言ってあります」
フィリップはびっくりしたが、相手の言ったことの意味がわからないうちに、アセルニーがいつもの動作でメガネを教えげながら続けた。
「先週の日曜日、何かあったのかと思って手紙を出したんです。ところが返事が来ないので、水曜日、おたくに伺いました」
フィリップは顔を背けたまま、返事をしなかった。心臓が激しく打っている。アセルニーは何も言わない。フィリップは沈黙が耐え難かったが、何を言っていいのか、一言も頭に浮かばない。
「女主人に聞くと、土曜日の夜から帰っていない、それに先月の部屋代も払ってもらっていないというじゃありませんか。いったいこの1週間、どこで寝ていたんです」
フィリップは言葉が使えて、胸が苦しくなった。目は窓の外をじっと見ている。
「どこでもありません」
「探したんですよ」
「どうして」
「私もベティも、昔はずいぶん辛い思いをしました。ただ、私たちには赤ん坊がいましたが。なぜ、ここにきてくれなかったのです」
「来られなかったんです」
フィリップは泣き出してしまいそうで不安になった。無力感に囚われて、どうしようもない。目を瞑って眉間に皺を寄せ、必死に自制しようとした。不意に怒りが込み上げてきた。なぜアセルニーはこんなでしゃばったことをするんだ。しかしそんな気持ちもすぐになえた。そして目を閉じたまま、声が乱れないようにゆっくり、ここ数週間の体験を語った。話しながら、自分のしたことが正気とは思えず、余計に話しづらくなった。アセルニーの目には、よほどの愚か者に写っているに違いない。
「なら、ここでしばらく一緒に暮らしましょう。仕事が見つかるまで」フィリップの話を聞き終わると、アセルニーが言った。
フィリップは赤くなったが、なぜだかはわからなかった。
「まさか。ご親切には心から感謝しますが、そんなことはできません」
「どうしてです」
フィリップは答えなかった。咄嗟に断ったのは、一家の邪魔になるのではないかという不安と、人の好意を素直に受けるのが恥ずかしいという元来の性格のせいだった。それに、アセルニーも生活は苦しく、そのうえ大家族だ。他人の世話をする場所もなければ金もない。
「いや、きてもらわないと困ります。ソープは弟たちと寝させるので、そのベッドを使ってください。あなた1人増えたところで、大河の一滴みたいなものです」
フィリップがなんと答えていいのかわからず、オドオドしていると、アセルニーがドアの方に行って妻をよんだ。
「ベティ」ミセス・アセルニーがやってきた。「きてくださるそうだ」
「まあ、よかった。じゃあ、ベッドの準備をしてきますね」
彼女は心のこもった親しげな口調で、すべてわかってますと言わんばかりだ。フィリップは感謝の気持ちでいっぱいだった。人の親切は決して期待しないようにしてきたので、親切にしてもらうと、驚き、感動してしまう。蓋粒の大きな涙がこぼれた頬を伝った。夫妻はこれからどうするか話し合っていて、疲れ切ったフィリップが見せた涙は目に入らないふりをしている。ミセス。アセルニーが出ていくと、フィリップはゆっくり椅子に座り直して窓の外を眺めながら短く笑った。
「外で過ごすには、ちょっと辛そうな晩ですよね」

P404

将来が約束されていたとまでは言いませんが普通に暮らしていたフィリップが戦争の影響で全財産を突然失ってしまい、住む場所にも困るという事態に対して、あまり裕福ではないにもかかわらず一緒に住もうと提案するアセルニーの人徳には感動しました。また、その提案を受ける前後のフィリップの描写の細かさも印象的でした。食うものにも困っていたのでアセルニーがくれた安葉巻がとても美味しく感じたのだろう、とか、仕事が見つかるまで一緒に住もうと提案してくれたにもかかわらず咄嗟に断ってしまったのは「人の好意を素直に受けるのが恥ずかしいという元来の性格」だったり自己肯定感が低く他人の好意に甘えるのが苦手なフィリップの性格が現れていました。



フィリップの職探し:面接のシーン


「君かね、あのポスターを描いた若者というのは」
「はい」
「うちでは使えないね。まったくダメだ」
彼はフィリップを上から下までジロジロ見ている。どうやら、それまでに面接した男たちとはどこか違うのがわかったらしい。
「フロックコートを一つ用意してもらわなくてはならないな。多分、持ってないんだろう。しっかりした青年に見えるが、絵は金にならんことがわかったかね」
フィリップは、相手が採用するつもりなのかそうでないのかわからなかった。随分乱暴なことを言ってくる。
「実家はどこかね」
「両親は、僕が幼い頃に亡くなりました」
「金がね、若い人にはチャンスを与えたいと考えていてね。私が目をかけた若者で売り場の責任者になったものも多い。みんな私に感謝していると思う。実にいい連中だ。私への恩を忘れていない。さて、まずはハシゴの1番下から初めてもらう。商売を学ぶなら、そこから始めるしかないからね。それさえしっかり身につければ、多くの道が開ける。うまくいけば、私のような地位につけるかもしれない。それをしっかり心に留めておいてほしいね」
「はい、必死に頑張りたいと思います」
(中略)
「そうだな。君なら大丈夫そうだ」ようやく、支配人がもったいぶった口調で言った。「きてもらうことにしよう」
「心から感謝します」

採用される瞬間はいつの時代もきっと嬉しいに違いないのですが、フィリップが採用されたこのシーンは、アセルニーへの恩返しという意味で2倍安堵しました。フィリップ自身の(最低限の)生活が保障されたのと、アセルニーに借りた恩を返すことができること。それらが決まったこのシーンはとても感慨深いものがありました。



貧困についての勘違い


貧しい人を助けようと活動する人々は考え違いをしている。彼らは、自分たちならとても耐えられないと思うところを改善しようとするが、貧しい人たちはそんなことには慣れているのだ。彼らは風通しの良い大きな部屋などは望んでいない。彼らは寒いのだ。ろくなものを食べていないから血行が悪く、部屋が広いと、かえって寒い。それに石炭が余分にいる。一部屋に何人も一緒に寝ることなどまるで気にもならない。その方がいい。なぜなら、生まれてから死ぬまで一人きりになることがないのだから。1人の方が恐ろしい。慣れ親しんだ雑居生活は快適で、周りの騒音などまったく耳に入らない。定期的に湯を浴びる必要も感じていない。入院するときに体を洗うように言われて怒る人たちの声はしょっちゅう耳にする。彼らにとって、それは侮辱であり、不快なのだ。とにかくかまわないでほしいのだ。仕事がありさえすれば、生きていけるし、それなりに楽しい。世間話のネタはいくらでもある。1日の労働が終わってのビールは美味いし、街には楽しいことがいくらでもある。読み物なら、週刊新聞の「レイノルズ・ニュース」や日曜新聞の「ニュース・オヴ・ザ・ワールド」がある。しかし、こんな声もよく聞く。「でもねえ、時間の経つのが早くって、ほんと、まったくそうなんですよ。あたしも若い頃には本もよく読んだんです。それがまあ、あれやこれやで、新聞を読む時間さえなくなってしまいました」


まさに、「自分の常識、他人の非常識」という言葉を痛感するようなコメントでした。フィリップは、医師として貧民街の出産現場を62件も担当するうちに、貧民街の人々の習性を目の当たりにしたようです。貧民は何よりも仕事が大事で、それ以外は変えるつもりもないから余計なことをしないでくれ、ということなのだそうです。


まとめ


まだまだ書きたいことはたくさんあるのですが、続きは別の記事で共有したいと思います。人間の絆、読後2-3週間でもまだ心地よい感触があります。終わり方がとても個人的には好きです。いまはディケンズの大いな遺産を読んでいるので、その感想も近々あげたいと思います。


おしまい

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