民主主義革命
日本という国ないし地域では、
民主政治が一人寂寥の中にいる。
日本という地域に住まう人々は「言語運用能力」を持て余している。
「日本語自体の潜在能力」は他に類を見ないほど高いのだが、日本人はそれを発揮させられずにいる。
本記事では日本人が好む「民主主義」というフレーズに関して論考を加える。
その過程において、日本人の言語に対するリテラシーを「跳躍」させる。
すなわち革命を起こす。
読者が、革命を起こすのだ。
これが本記事の眼目である。
それでは、2700文字時間で革命をおっ始めよう。
民主主義という判断基準
「民主主義」とかいうものは、
フワッとした民意によって流されてしまうから危険なようだ。
民主主義をみんなで集まって守らなければならないらしい。
これは一面において正鵠の真ん中を射ている。
これは一面において正鵠にアクビをされてしまう表現だ。
まず、民主主義というものは「主義」であって「人々の頭の中にある判断基準」だ。
したがって、フワッとしていて流されてしまうことが多々ある。
民主主義とは頭の中にある判断基準。
だからフワッとした民意によって流されてしまう性質のものではある。
人間だもの。
翻って、民主主義というものは「主義」であって「人々の頭の中にある判断基準」だ。
それを守ると言っている人がいる。
守るも何も、頭の中にあるものをわざわざ守らなくてもいいだろうに。
民主主義とは頭の中にある判断基準。
それぞれが、民主優先主義の判断基準をそれぞれの頭の中で温めておけばいいのだ。
人間だかんね。
この項をまとめよう。
民主主義と言うものは判断基準であり、フワッとした民意によって流されるものではある。
その一方で、民主主義というものは判断基準であるからして、守る必要などはない。
思っておけばいい。
人間やからね。
沈黙のジパング
近現代日本語の多くが明治維新前後に急ごしらえでつくられた。
西周と森鴎外が80%以上を翻訳して作ってくれた「スーパーレガシー」だ。
だがしかし、
エリートが作ったのでどうしてもエリート向けとなっている。
近現代日本語とは幕末に描かれた「大人の絵本」なのだ。
当時のエリートは群を抜いて賢かった。
現代日本人から恐ろしく乖離して高い知性水準を誇る。
「ジパング」( かわぐちかいじ作)を読み過ぎた筆者にはわかる。
「沈黙の艦隊」( かわぐちかいじ作)を読み過ぎた筆者の洞察力なら観える。
明治の元勲たちは、一定水準以上の知性を前提に近現代日本語を構築したのだ。
だから、一定水準以上の知性が枯渇した場合。
日本語による文明の伝承は途切れてしまう。
実際に途切れつつある。
その証左に、
読者はわずか2分前まで、
民主主義と民主政治とを区別できていなかった。
言外を読め
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