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巨人の頭に乗る時代/AI画像生成にみる文明の終焉

AIを使った画像生成が爛熟しつつある。
例えば、冒頭の画像はkoko55555513画伯のアートであり、非常にパンチの効いた画風である。
このような出色のイラストを我々はAI画像生成によって作ることが可能になったのだ。

確かに、
koko55555513画伯の域まで行くのは相当な難題ではある。
だが誰でも、AI画像生成を用いて半生をかけて修練を積めば、
思い描いた情景を文章にして打ち込むだけで、洗練された「イラスト」が生成されるという優れものなのだ。

どういう仕組みになっているかと言えば、
過去の綺羅星の如き画家たちのアートがAIに記憶されており、打ち込まれた文章に沿うイラストを過去のアートを掛け算して作り出すのだ。

AI画像生成 = 過去のアート * 過去のアート

AI画像生成のメカニズムは過去のアートの掛け算

確かに、手頃だ。
確かに、それでいて洗練されたイラストを作成できる。
だが、どこかに引っ掛かりがある。

やはり他人のフンドシで相撲をとっている感覚は否定できないからだ。
果たして、我々はこのままAI頼りの相撲をとり続けて良いのだろうか?

巨人の肩に乗る 〜文明の骨子〜


「巨人の肩に乗る」という慣用句がある。
これは「先人たちの知恵を使用させてもらう」という意味だ。
我々は日常的に「火」を使用するが、我々現代人が「火」を発明したのではない。
太古の先輩方が艱難辛苦のすえに「火」を発明したのだ。
それを拝借して火を用い、火力発電所でタービンを回し、電力を生成し、電子機器に電気が届き、読者はインターネットに繋いで、拙文に目を通してくれている。
かくいう私も今まさにパソコンのキーボードをシャカシャカシャカシャカと打っているが、これは文字を発明してくれた人類の先輩がいたからこそ可能な芸当なのだ。

様々な先輩たちの叡智を使わせてもらっているから、我々はさりげなく芸当を繰り出すことが出来る。


このように、
現代に生きる我々は皆、
人類の先輩たちという「巨人の肩」に乗って、利便性の高い暮らしを享受しているのだ。



巨人の肩と他人のフンドシ

一方で、
「他人のフンドシで相撲をとる」という慣用句もある。
これは「他人のものを、さも自分のものであるように使う」という意味だ。

では、先ほど述べた「巨人の肩に乗る」と「他人のフンドシで相撲をとる」の違いはどこら辺にあるのだろうか?

それはズバリ「敬意」だ。

敬意を持って他人様の叡智を拝借すれば「巨人の肩に乗る」ことになる。
敬意を持たず他人様の叡智を陵辱すれば「他人のフンドシで相撲をとる」ことになる。

肩に乗るのは偉大さに対する敬慕があるが、フンドシは卑猥だからである🤔



AI画像生成は巨人の肩か?


では、冒頭で述べたAI画像生成は「巨人の肩」なのだろうか?
それとも「他人のフンドシ」なのだろうか?

AI画像生成を、巨人の肩と呼ぶには利用者の敬意が欠けている。
かといって、
他人のフンドシと言い捨てるには出来が良すぎる。

だから、
AI画像生成は「巨人の頭に乗って」と表現するぐらいが丁度いいのではなかろうか。

「巨人の肩に乗る」という表現には、巨人に肩車させてもらっているという甘えと謙譲と敬意がある。
一方で、
「巨人の頭に乗って」という表現には、巨人の頭ごなしにという暴虐がある。

我々はAI画像生成を用いるとき、果たして偉大な過去の画家たちに思いを馳せているだろうか?
いや、思いを馳せていない。
我々は先人に対する敬意なしに、
我々は先人の肩に乗っている意識を忘却の彼方において、パソコンの前で私欲に塗れた念仏を唱えて、洗練されたイラストを我が物のように扱っているのだ。

だから、我々は先人の顔を潰しているという文脈において、
「巨人の頭に乗って」、コンテンツを作っているんだと自戒しなければならない。

さもなければ、優れた作品を自分だけの力で作ったのだと勘違いして、「巨人の肩に乗る」という「文明の本質」すらも忘却することになる。



巨人の頭を踏みつける現代


AI画像生成は便利であるし、使い方によっては文明を発展させることが出来る。
どういう使い方をすれば文明を発展させられるかと言えば、
先人たちの叡智を拝借させてもらっていると意識すれば良いのだ。
そして、先人たちの叡智がどのようなものだったのかを、後世に伝えることを怠ってはならない。
文明とはとても長い道標であり、完成品だけではダメなのだ。
文明とは再現可能性がなくてはダメで、完成品の誇示だけではダメなのだ。
残念ながらAI画像生成は今の所において、完成品の誇示だけに終始している。
どういった先人たちの肩にのって作られた作品なのかの明記はないし、敬意も、まず感じることはできない。

デジタル化によって記録が容易になったにもかかわらず、記録するのは自分たちの自己顕示欲だけ。
デジタル化によって記録が容易になったにもかかわらず、過去の先人の叡智は蚊帳の外に起き忘れたまま。

デジタル化という直近の巨人の肩叡智すらも宝の持ち腐れになりつつある。



ゆっくりと巨人の肩に降りる

このままだと、文明が再現可能性を消失するまでさほど時間はかからない。
再現可能性を失った文明とはすなわち自己満足である。
悠久の時をかけ、巨人の肩に乗り、積み上げてきた文明が、
膨大なエゴとわずかばかりの期間によって消えてなくなるだろう。


文明存続のために、
我々がしなければならないことはさほど難しいことではない。


まず、
巨人の頭に乗って無礼を働いていることを知ることだ。
そして、
巨人の頭に乗っていることがわかったならば、
そこから、ゆっくりでいいから肩に降りていくことだ。

たった、それだけでいい。

なぜなら文明の要諦中の要諦は、「決して奢らない」敬意ことだからだ。

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