「去る山田、そして福本」/上田利治/宿将吠え違う
上田利治
1937年生まれ。
阪急ブレーブス黄金期を支えた名将にして宿将。
広島カープで選手としては大成しなかったが、その野球理論を見染めた松田恒次オーナーの鶴の一声で若干25歳にして2軍コーチに就任。
そこからメキメキと指導者としての頭角をあらわし、1971年に阪急ブレーブスのヘッドコーチに就任する。
1974年には阪急ブレーブスの監督になんと37歳の若さで上り詰める。
そこから上田は阪急黄金期のタクトをふるい続けた。
だが阪急ブレーブスが最終年となった1988年の最終試合で珍事件を起こしてしまう。
今日は上田利治監督のその事件に至るまでを語っていこう。
読書家・上田利治
読書家として知られており、学生時代にナポレオン・ボナパルトの著作を全て読破。広島日南キャンプでは六法全書を持ち込み法律の勉強をしていた。
指導者となって以降はカーネギーや孫子を読み漁りリーダーシップに磨きをかける。
こうしたおよそ野球人とは思えないほどの読書量が、指導者としての上田を支えることになる。
「人生という試合において最も大切なもの。それは休憩時間中の得点である」
とはナポレオンの言だが、読書という休憩時間中の得点を積み重ねた上田だからこそ為せた偉業があった。
ブーマーにオムライスを奢る
ブーマー・ウェルズは三冠王を獲得することになる大打者だったが、恐妻家であり1日の小遣いが2000円までと厳しく規制されていた。
そのため来日当初ブーマーは球団食堂で寂しくオムライスばかり食べていた。
このことに逸早く勘付いた上田はブーマーに声をかけ、ご馳走を奢ってやった。
これを粋に感じたブーマーは打棒を爆発させ三冠王を獲得するに至る。
「よく戦うものは勝ちやすくを勝つ」
とは孫子の兵法の一節だが、これを上田は地でいっていた訳である。
このように上田はナポレオンやカーネギーそして孫子から学んだリーダーシップを遺憾なく発揮させて阪急の黄金期を築いたのだ。
1時間19分の抗議より大切なもの
1978年の日本シリーズ第7戦において、ポール際の打球をめぐって1時間19分という日本記録となる抗議を上田が敢行。
この時ホームランの決定は覆らず上田率いる阪急は敗れ日本シリーズ4連覇を逸した。
ここで上田が偉大なのはこの後だ。
上田は第七戦の混乱の責任をとって監督を退いた。
カーネギー?
カーネギーの名言を引いてこの節を締めろ、、だと??
ナポレオン、孫子ときたんだから、
ここはカーネギーの言で結べ、、だと???
おめえカーネギーwは読んでねえんじゃねえのか、、、だと????
「人を熱烈に動かそうと思ったら、相手の言い分を熱心に聞かなければならない」
とはカーネギー氏の最も有名な言でありウェブを検索しても最上位に表示されるほどだが、上田の潔さは人をより猛烈に動かす布石となった。
黄金期という斜陽期
一旦監督を退き3年の雌伏をへて阪急の監督に上田は復帰する。
ここからも上田率いる阪急は好成績をおさめるが、主力選手の衰えは隠せずさらに西武ライオンズが急速に力をつけてきたことも相まって優勝からは遠ざかる。
黄金期というものは同時に斜陽期であり、あまりに輝きが強いため斜陽部分が見えにくくなる。
1970年代後半に黄金期を迎えていた阪急の場合もそうであった。
去る山田、そして残る福本
黄金期を知る選手たちが次々とグラウンドから姿を消していく。
そして、
ついに阪急を支えてきた大エースもユニフォームを脱ぐ時がやってきた。
1988年10月23日その年の最終戦が終わった後、山田久志の引退セレモニーが催された。
監督である上田がスピーチして大功労者・山田久志をねぎらって送り出す。
こうした青写真だったが、思わぬ形で狂いが生じる。
前日に阪急ブレーブスの身売りを知って、上田の聡明な頭脳にも混乱が生じたのだ。
当初予定では、
「去る山田、そして残る福本」で〆だった。
引退する大エース・山田久志。
まだ現役としてチームに残る世界の盗塁王()・福本豊。
チームの二枚看板の去就を明確にして〆る。
パーフェクトな青写真だったが、長年慣れ親しんだ阪急ブレーブスが消滅することを前日に知らされたばかりの上田利治は心ここに在らずだった。
去る山田、そして福本
運命のスピーチが始まった。
パン屋の親父といった風貌の上田利治監督は、淡々と時に熱くファンへの感謝を言の葉にのせて飛ばす。
そしてついにスピーチもクライマックス。
後は、
「去る山田、そして残る福本」
を残すのみとなった。
だが残念なことに上田利治の大脳辺縁系海馬宙域には疲弊から「残る」が残らなかった。
「残る」がぶっ飛んでしまったのだ。
「去る山田、そして 福本っ」
上田利治監督はこう〆てスピーチと阪急ブレーブスに終止符をうつ。
だが福本豊は来期も現役でバリバリ働くつもりだったので問題となりかけた。
上田監督のスピーチによれば、福本までも去ることになったのだから。
しかし鷹揚な福本っさんだったので、
「もうええわっ」ってな感じで流れに竿さして潔くユニフォームを脱いでくれたのだった。
ブルーサンダー打線、そしてイチローへ
こうして山田久志と福本豊が去った阪急は球団名もオリックスと一新して、
翌年1989年から新たなスタートを切ることとなった。
松永、石嶺、門田、ブーマー、パンチ佐藤・・・
ブルーサンダー打線と恐れられたが、いかんせん投手陣がついてこず2年連続で2位に終わる。
こうして1990年をもって宿将にして名将・上田利治は阪急あらためオリックスをさることとなった。
その年、
入れ替わりであのイチローが入団。
1990年。
去る名将、そして、イチローの時代が始まる。