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駅の上の雲/諜報、タワマン、司馬遼太郎 失敗の本質
郊外のイオンが夢の島だった00年代。
駅チカのタワマンを目指す10年代。
昨今の我が国において、目指すべき場所がころころと移ろうことは既に述べた。
しかしながら、イオンであれタワマンであれ我々が目指そうとしているものは卑近(ひきん)なものばかりとなっている。
大日本帝国の時代において、我々が目指していたものは恒に国家の枠外にあった。
だが大東亜の敗戦以降、我々はすっかりうちに閉じこもった。
わけても、グローバル化が姦しく喧伝されだした2000年代初頭から、イオンやタワマンという卑近極まりないものばかりを目指している。
郊外の上にそびえるイオンを目指したかと思えば、駅の上に聳えるタワマンを目指す。
グローバル化で世界と繋がったとは思えないほど、我々はうちにうちに閉じこもろうとしているのだ。
いわゆるグローバル化なるものを行えば、海外に目を向けそうなものだが、我々は以前にまして小さく纏まりながらうちに閉じこもろうとしている。
なぜなのだろうか。
今日はそこらあたりを徒然と述べてみよう。
日露戦争はミラクルだったのか?
日露戦争は奇跡的勝利だったのだろうか?
いやそれは違う。
日露戦争は大日本帝国が勝つべくして勝った闘いだ。
司馬遼太郎の魔法に掛けられると、あたかも日露戦争が薄氷の上の勝利だったと語れるようになる。
確かに大日本帝国とロシアでは軍事力に少なからぬ差はあった。
だがどうだろうか。
経済規模において伸長著しい大日本帝国は、その勢いを鑑みればロシアと経済においてすでに拮抗しつつあった。
日露両国が経済規模で拮抗していて、軍事力においてロシアが上ということは、相当にロシアが無理をしていたと言えるだろう。
財政が悲鳴を上げる中で、ロシア皇帝ニコライは軍事拡大に励み内政を怠っていた。
「国家が国内の不公正を放置し、いたずらに軍備を拡大し、その力を外に対しては侵略、内に対しては弾圧という形で用いる時、その国家は衰退の途上にある」、とは田中芳樹の言だが、帝政ロシアはまさに衰退の途上にあった。
人民からは暴税に対し不満の声が上がり、それを弾圧するためにニコライが軍事と警察力を拡大すれば、更なる増税は不可避となり、暴税に対し不満の声はユーラシアを揺らがすほどになっていたのだ。
ロシアは内から崩れる。
諜報の世界でこうした観測が広がる中で、大日本帝国はロシアとの間で戦端を開いた。
機を見るに敏な仕掛けだったといえよう。
大日本帝国には世界でも屈指の諜報機関があり、ロシアの内情をつぶさに観察できていたのだ。
実際、ロシアは血の日曜日事件を端緒として、ウチから崩れた。
見事なものである。
大日本帝国は勝つべくして勝ったのだ。
坂の上の諜報無き世界/司馬遼太郎マジカルワールド
兵は詭道なり
戦いとは騙し合いなのだよと、孔ちゃんがいった。
しかしながら、司馬遼太郎の世界では正々堂々と人々が生真面目かつ予定調和で動いている。
戦いのエッセンスだけを取りのぞいて日露戦争前夜から世界を描いた司馬遼太郎はヤバい。
本質抜きであれだけ長い長〜い文章を綴れるのはお世辞抜きで凄いことだ。
結果、諜報という戦いの本質が元大日本帝国すなわち日本では語られなくなった。
本質だけを削ぎ落とした世界。
それが司馬遼太郎が描いた世界であり、戦後の日本なのではないだろうか。
司馬遼太郎 あまり知られていない失敗の本質
司馬遼太郎が日本から本質だけを器用に削ぎ落としたことはすでに述べた。
では本質を削ぎ落とした世界ではどんなことが起こるのだろうか?
あまり知られていないが、日本には諜報機関というものがない。
あまり知られていないが、諜報機関というものは必ず国家が保有するものだ。
あまり知られていないが、軍隊と諜報機関を二つとも持たない国家は有史以来日本しか存在しない。
このように、
あまり知られていないが、戦後の日本はあまり知られていないことだらけになっている。
どうやら、戦後において本質だけを削ぎ落とした日本は、あまり知られていないことだらけになっている。
なぜ、日本ではあまり知られていないことがこんなにも氾濫するのだろうか?
それは諜報機関が存在しないからだ。
諜報機関とは他国の情報操作から国民を守る組織だ。
その諜報機関が日本には存在しない。
その結果、我々日本人はどうなったか?
日本人は他国の情報操作のなすがままなのだ。
他国の情報操作のなすがままに、70年近く生きながらえてきた結果、
日本は「あまり知られていない」ことだらけになってしまった。
本質だけを器用に抜き去った議論ばかりがなされ、大切なことは一向に語られない。
いや、語れない。
それが戦後日本の本質だ。
司馬遼太郎が上梓した作品たちがそれを雄弁に、かつ本質的に語っている。